読書日記「百年の孤独」
勤務弁護士の頃、会津若松に事件があり、出張をした際、どう考えても夜遅くにしか帰ることが出来ないし、また、電車の予定にも少し時間があったので、市内観光をしたことがあった。
会津若松は、豊臣秀吉によって蒲生氏郷に与えられたが、氏郷は若くして死亡したため、後に保科家が会津若松に転封された。後に幕末に京都守護として活躍した松平容保はこの家から出ている。保科家は、何よりも江戸の将軍を保佐し、立ちゆかせるべきであるという家訓があった。
それは、この大名の成り立ちとも関係がある。徳川秀忠の子であったが、秀忠の妻の悋気がひどいため、保科正光の養子として育てられた保科正之をその祖としている大名であり、家光は秀忠の死語彼を実弟として認め、かつ、破格の厚遇をしている。会津松平家は徳川幕府にとって、親藩の中の親藩と目されていた。
それが幕末の戊辰戦争の時の白虎隊の悲劇の原因となったのであろう。あの時代、誰しも京都守護職など引き受けることはしたくなかったに違いない。それを幕府からの命令であるからとして、守護職を引き受けた松平容保の心中はいかなるものであったかと思われるのである。
白虎隊終焉の地を見て、その他歴史資料館を見た。確か記憶では白虎隊は地下水路のようなものを抜けて会津若松にたどりついた時、城が燃えていると誤信して自決するのであるが、地下水路を当時の技術で造ったその執念にも驚かされたし、多くの幕臣が新体制の政府に出仕したことと見比べると、白虎隊の潔さは一服の清涼剤のようにも思われたことを記憶している。
なお、松平容保は、明治維新後は蟄居を命じられ、蟄居を許された後は、晩年を日光東照宮の宮司として過ごし、会津藩のことを語ることはなかったとされている。
現在は福島地裁の支部があるだけであるが、幕末までは奥羽の外様藩を監視する重要な位置関係にあったのである。