読書日記「百年の孤独」
「鳴かぬなら殺してしまえ不如帰」というのが信長を象徴する歌として世間ではいわれているが、実際の信長は全くそのような武将ではなかった。
この歌からすると、極めて短気で、場当たり的な武将であったように聞こえるが、実際の信長は目的のためなら極めて迂遠な手段や遠大な計画が出来る武将であったのである。
信長にとって、最も恐れた武将といえば、上杉謙信と武田信玄の2人である。
信長は、岐阜の東で信玄と国境が接していた為、上洛するにあたり、また、上洛後もへりくだって信玄の機嫌を取っている。側近は信長に油断をしてはならないと進言したが、信玄は信長を気に入っていたようである。側近の進言に対し、信長が贈る贈答品の中で、漆器があったところ、信玄はあるときその漆器の角を削らせてみた。そうしたところ、漆器は何重にも塗り重ねがしてある重厚なものであったことがわかり、「こうした贈り物一つにもここまで細やかな心配りをする信長は信用できる」と言っていたのである。
信玄じたい、当時は謙信からの侵攻を受けていたり、西上野の攻略に多忙で上洛軍を編成することなど出来なかったが為に、騙されていた風をしていたのかもしれないが、形の上では、信長は信玄を欺いていたことになる。
上杉謙信にも屏風を贈って機嫌を取ったり、謙信上洛の暁には馬のくつわを信長自らが取るというようなことまで書いている。
単純に短気な武将がこのようなことは出来ない。
実のところ、信長は、美濃を獲るのに7年という歳月を費やしている。美濃を獲るために、小規模の軍勢を出して相手の情勢を探り、調略によって敵方の有力武将を寝返らせ、最後は一気に稲葉山城に攻めかかったのである。短気な武将ではこのようなことは出来ないであろう。
目的を設定して、その目的達成のために戦略を練り、目的達成のためなら頭を下げることも何とも思わないふてぶてしさ(後に浅井・朝倉と和睦した際にも、天下は朝倉が獲り賜えと言っている)が信長の真骨頂である。
そして、自らが強い立場になった途端、信長は過去の経緯などかなぐり捨てて非情になる。信玄に対しても、立場が逆転したような書状を送り、家康に至っては、一配下武将扱いである。
なお、信長が松平信康(家康の長男)の英邁であったことから、将来の禍根を断つために信康に死罪を与えるようにしたという説があるが、司馬遼太郎が書いているように、信康は徳川家の家老からすると仕えにくく、徳川家を危難に導く後継者であった為に、家老の酒井忠次によって葬り去られたというのが実像であろう。
現在の世の中にも英邁に見えて実のところ違う人や、豪快に見えて実は繊細な人、豪快さと繊細さを兼ね備えている人、様々であり、人を評する際には様々な注意が必要だと思うのである。