読書日記「百年の孤独」
自分に対していろいろと縛りをかけるというのは、難しいようでいて実は簡単ではなかろうかという気もする。
誰かから「これだけしていればいい」といわれてその枠内で縛りをかけて物事を捉えていくというのは厳しい戒律のようでいて、それを正しいと信じてそれに従っていさえすれば、本人は自分で悩んだり考える必要がないから安心ということもいえるであろう。
そういう意味では自分に縛りをかけることもある意味では楽ということも出来る。
非常にいい教義を説いていても、その宗教に入って何をすればよいかと教祖に聞いた時に、「何もしなくてよい。ただ祈ればよい」とか「自分で念仏を唱えていればいい」とだけ教えても宗教は流行しないということを「逆説の日本史」の中で井沢元彦氏は書いておられれる。一向宗が蓮如が出てくるまでは全然流行らなかったことをひきあいに出している。
人間は何かをしたいものだからであり、教義で縛りをかけて何かをさせられる方が安心するところがあるからという。
修行を積んだ禅宗のお坊さんは物事に囚われなくなり融通無碍な境地にあるともいわれているが、悟りという境地はどんな境地なのだろう。
物わかりのいい上品なお爺さんには絶対になりたくなく、意地悪なジジイになりたい私としては悟りは開けそうにない。
生きていく上で他者を傷つけることのない自分に対する縛りであれば、それは効用があると思うが、その縛りによって他者を傷つけ、他者に対してその自分に対する縛りを押しつけるようでは、その縛りは本当にいいものではないのであろうと思う。