「社長人生相談」を始めたワケ

人の心臓は、
一日に約10万回、拍動している。
眠っていても、
考え込んでいても、
不安に沈んでいても、
誰かと笑っていても。
一度も休まず、
ただ、打ち続けている。
心臓から送り出された血液は、
動脈・静脈・毛細血管を通り、
全身を巡る。
その血管の総延長は、
およそ10万キロメートル。
地球を二周半する距離だ。
その果てしないネットワークに、
わずか4~5リットルの血液が、
絶え間なく循環している。
その駆動源が、
自分の胸の奥にある。
聴診器を当てると、
「ドクン、ドクン」という弁の音が響く。
それは思考の音ではない。
感情の音でもない。
生命の音だ。
私たちは普段、
言葉や概念や評価の中で生きている。
うまくいっているか。
正しいか。
他者からどう見えるか。
しかし心音を聴いていると、
そうした層が、少し剥がれていく。
残るのは、
ただ「生きている」という事実。
そのとき、
自分の内側に、ほのかな野性味が立ち上がる。
それは荒々しさではない。
文明の否定でもない。
もっと根源的な、
「生きもの」としての実感。
血液が流れている。
細胞が働いている。
弁が閉じ、また開く。
誰の許可も得ず、
誰の評価も受けず、
ただ、起きている。
その静かな確かさに触れると、
実存的な悩みは、少し緩む。
私は何者なのか。
このままでいいのか。
意味はあるのか。
そう問い続ける思考の背後で、
心臓は答えも出さずに打っている。
「今、生きている。」
それだけで、十分だとでも言うように。
感性的な揺らぎも、
怒りも、不安も、
一瞬では消えない。
けれど、
心音を数分聴いていると、
それらは中心から少し外側へ退く。
中心には、
鼓動がある。
その鼓動は、
文明以前から続いているリズムだ。
動物だった頃の記憶といってもいい。
だからこそ、
ほのかな野性味が湧いてくる。
それは、
人間である前の、
生命としての自分への回帰。
野性味とは、
攻撃性ではない。
むしろ、
過剰な思考から解き放たれた
自然な存在感。
自分は「機能」ではない。
「役割」でもない。
「評価」でもない。
拍動する存在だ。
その事実に触れるとき、
自分の輪郭がくっきりとする。
一日に10万回、
地球二周半の距離を、
血液が巡っている。
その中心に、自分がいる。
このスケール感を、
胸の内側で聴く。
それだけで、
世界との関係が少し変わる。
実存的な問いに、
即答はない。
けれど、
心音はいつも鳴っている。
「今が、今を響かせている。」
その現場が、ここにある。
ほのかな野性味を帯びた静けさ。
それが、
心音を聴くということの贈り物だ。



