対話が作る学力
11月3日は、全国統一小学生テストでした。
小規模の塾ですが、参加者全員最後まで全力を出して頑張ってくれたと思います。
春テストでは決勝進出者が出ましたが、コロナ禍の中、決勝大会が中止となり、東京に行けず残念がっていました。
今回は行けるといいのですが…。
こういうこの成長はそれはそれで嬉しいのですが、今回はほかに気になったことがありました。
それは、各学年毎、難度の易しい問題から難しい問題まで幅広く取り組まなければならない今回のようなテストでは、ある程度詰めた学習状況の生徒とそうでない生徒では答案処理の量に歴然と差があるということです。
答案を見ると違いは顕著です。
以前はこれほど差があったとは思いませんでしたが、公立小学校+無塾のお子さんの対応力が極端に落ちている印象を受けました。
わたしはなにも、早期教育の信奉者でもなければ低学年からのハードワークを強いるつもりもありません。
ヒトはそれぞれ自分の育つ時機と場所を持っているはずです。
しかし、このような答案を前にすると思うのです。
やはり鉄は熱いうちに打つべきだと…。
時機を極端に早期化した学習環境や大きな負担となる学習状態がイイとは思いませんが、ある程度負荷の掛かる学習状況に身を置くことはやはり子どもたちの成長には必要なのです。
確かな時に必要とする学習を多少負荷を掛けながら提供する。
ここに成長する学習の本質があります。楽しいだけ、緩やかなだけではナカナカお子さんの思いに流されてしまい、定着の度合いが低くなるきらいがあります。
私が良くするお話に、プールで泳ぎを覚える例えがあります。
泳ぎを覚えたいなら、足の届く水位のプールではなく、つま先立ちで息ができるかできないかぐらいのプールが理想です。
多少水を飲んでもストレスを感じても泳ぐことに必死になる状況は、体の使い方をわからせ、スキルを早く身につけていきます。
もちろん、事故があってはいけないので指導者の見守りは必要です。
いわば、学習におけるこの「指導者の見守り」役が私たちだといったところでしょうか。
自由、自立…等々、良く聞く言葉です。
しかし、そんな学習を行うためには行為者にある程度の力量が必要です。
「鉄」は打つことで不純物が無くなり、純化ししなやかで強い「鋼」になるといいます。
今、目の前の「鉄」は焼けばいいのかなませばいいのかそれとも打てばいいのか、良く見極めながら、私たち「指導者の見守り」役は、お預かりした子どもたちみんながそれぞれに「鋼」になることを願っています。