『百里を行く者は九十を半とす』
いじめを認めるつもりもその実施者を養護する気もサラサラありません。
しかし、最近のいじめによる自殺者やその連鎖ともいえる増加を考える時、一人ひとりの方のこころの折れやすさに思い至らずにはいられません。
今、この国から命への畏敬の念が失われています。
祖父や祖母がわが家ではなく、病院や特養ホームで最後の時を迎えるようになって久しくなります。
今回のコロナ禍でも多くの高齢者の方が親族に看取られることもなくお亡くなりになりました。
家が狭いので、ペットはタマゴッチや「あつまれどうぶつの森」ですまします。
私たちの周りから死という実体験が段々失われています。
太平洋戦争終結から70年余経ち、以前は親戚に一人はいた戦争の悲惨さを伝える語り部も亡くなり、ましてや戦没者の遺族との接点など殆どありません。
小説『夏の庭』や『ホタルの墓』も今の子供達にとっては、『バイオハザード』の世界と何ら大差はない空想の世界です。
子供達はそんな時代に生きています。
私は、今、小学校低学年生の老人介護施設への一定期間の訪問を義務化して欲しいと考えています。
人は老い、人は死ぬものです。
しかし、命ある限りは生き続けるものでもあります。
そのことをしっかりと子供達に感じて欲しいと願っています。
君が抱えているつらい日々は目の前の明日をもしれぬ、しかし生ある限り生きようとする人々のつらさに比べれば些細なことだと気づいて欲しいと思います。
不遜に聞こえるかもしれませんが、亡くなっていく方々にとっても、自分の生きようとする姿で一人でも多くの子供達に生へのメッセージが届けば、それはすばらしいことでは…と考えるのですが。
死と生の実体験こそ、若く折れやすい子どもたちの心にしなやかな生きる力を芽生えさせ、自身の生きる意義を感じる契機となるはずです。