Vol.52 マインクラフトと食べ物から学べること~遊びながら身につく生きる力~
道の道とすべきは常の道に非ず。名の名のすべきは常の名に非ず。
老子[上篇第1章]
自分はプログラミング教育や、学びについて考えるときにいつも念頭に入れるいくつかの参考書があります。(※参考書にしているなんて書くと、とても偉そうに聞こえるものばかりですがw)
その一つが老子(道徳経)で、オードリー・タンさんの書籍を読むようになってから気になり始めました。
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今日は少し、その老子の1節にある
「道の道とすべきは常の道に非ず。名の名のすべきは常の名に非ず。」
という有名な一節でプログラミング教育との親和性を考えてみます。
道の道とすべきは常の道に非ずの意味
この言葉の意味は、
「真の道(タオ)は、言葉で説明し尽くせるものではなく、真の名も固定化された名前では表せない」
という意味となり、つまり、
「本質は形式や言葉には収まりきらない」
ということを示しています。
老子ではよく「道(タオ)」という言葉を使用しており、道教の元にもなっていますね。
プログラミング教育への応用
以下は、そんな老子の言葉を自分なりにプログラミング教育に当てはめて考えてみたものです。
1. 「唯一の正解」にこだわらない教育
- 意味合いの適用:ある方法(本や動画、サイトなどに書かれた“正しい”やり方=名づけられたやり方)だけが常に正しいわけではない。
- 実践例:ScratchやPythonなどの課題に対して複数の答え方があることを最初に言い含めておき、まるで「答えというもの」が一つしかないかのような固定概念を取り払う。
- その上で、もしプログラムを作ってくれたなら、「これは正解、これは間違い」とか言う前に、考え出したアイディア自体に対して前向きな評価をしながら、なぜそう作ったのかを考えて「自分の口で答えてもらう」時間をとる。
例:「for文でもwhile文でもいい、どう使い分けた?」「関数でまとめた理由は?」「このブロックを使ったとはやるね!」など。
2. 「理解はプロセスであり、固定された形ではない」
- 意味合いの適用:道とは流動的で、その人自身が~体験~を通して見つけていくもの。
- 実践例:生徒が自ら手を動かして試行錯誤できるようにする。または、そのような貴重な体験の時間を生徒から奪わないようにする。奪ってしまうとそれは、せっかくの「体験からくる感動」という権利自体を奪うことになるから。
- 教える側が「正解を教える」より、「自分で考えさせる」ことを大切に、もしくは優先させることが大事!
3. 「本質に迫る力」を養う
- 意味合いの適用:見えているコードやルールの奥にある“本質”を感じ取る力が大事。
- 実践例:「このコード(ブロック)って、なぜ必要なんだろう?」という視点を持たせられるような自然な疑問が「許される雰囲気」の授業環境を創っていきながら、より柔和な態度でユニークもたっぷりに生徒に接する。
- 例:ただ正解に近いコードをおぼえさせるのでなく、「なぜそのコードが必要なのか」「こちらではダメなのか?」「僕だったらこうするけれどどう思う?」とか・・・そのあとの沈黙の時間や授業全体の時間制限を過度に意識せずに問いかけることで、ある生徒は「意気揚々と反論」し、ある生徒は「静かに思案」できるようにする。
老子の一節とプログラミング教育な考え方をまとめると
表面的な“型”にとらわれず、本質を捉え、各自が自分の道を見出すべき
もしかしなくても、プログラミング教育に限らずとっても大事な教育観ですよね(*^^*)
自分的には、上にすでに書いたような「自分の考えが許される空間」を大事にしたいなと強く思います。また、この先どのようになるかわからない時代(VUCA)において、力強く自分で答えを見つけ出せるようになるためには、やはりプログラミング教育という手段はとても有効だなと感じています。
みなさんは、どう思われましたか?
せっかくブログを数日前から始めたので、こういった昔の書籍からの引用で考えていることも備忘録として書いてみることにします(*'▽')
ご意見やご感想があればいつでもコメントお願い致します。




