永代墓
今日山形新聞さんの紙面に、様々な葬送の形という記事が載っていました。過疎化や少子高齢化による寺じまい、墓じまいについて、人口減少社会ではいろんな問題が生じます、まさしく寺じまい、墓じまいもすなわち、寺じまいにはそれに代わるコミュニティでの管理や、やはり公共団体の管理などが必要となるでしょう、墓じまいは、共同納骨供養や、海洋散骨、手元供養、はては宇宙そうなるものまで、何か考え違いがないでしょうか?供養って亡くなった方のためだけのものではないと思いますが、それであれば、私からすれば害悪でしかない葬式仏教と考えが同じではないですか、供養は、またお寺さんは、生きている私たちにも必要不可欠なカテゴリーなんだと思っている私にとって、昔はお寺さんに行けば生きて行くすべの指針を教えてくれたものです、えらぶらず親身になってだから住職は尊敬できる人たちでした、また、墓はつらい時や困った時に何処にも相談できない時に、亡くなった先祖と語らったところでした、それは今でも必要な、生きて行くためのツールなのだと思います。それをたとえ遺言で散骨してくれと言われても、海洋にすべてをまいてしまったら、語り合う対照がなくなってしまいます。私は葬送、散骨に反対しているわけではなく、葬送の多様性は必要でしょうから、でも散骨するならば、一部は残してほしいと思います。また、縁者がいる間は小さくてもいいから語る場を設けるべきだと思います。今生きていることは、光と同じように輝き、、まっすぐ進んでいると思います。そろそろ、終活はじめなければ。
時代の趨勢、人口減少少子高齢化対策は、各お寺さんや、公共団体が管理する永代供養などでの対応があれば良いのではないでしょうか?山形で一番小さい石屋の独り言でした。