キャリア用語での主訴とは自分としてはどうしたいのかという意思
みなさんは、なにかを誰かのせい(おかげ)と思ったことはありま
普通に生活していていれば必ずそういう出来事に巡り合うことがあ
ここでは「誰か」に込めた意味について解説します。
本能に近い感情ほど消化するのが難しくなります。
映画や漫画などでテーマとして扱われることもある「七つの大罪」は、限りなく本能に近い感情です。
古い映画ですが1995年公開の「セブン」という作品は衝撃的でした。
「傲慢」「強欲」「嫉妬」「憤怒」「色欲」「暴食」「怠惰」この感情は本当に厄介です。
本能に近い感情ほど完全に消化されることは無く、どこかに「歪」が生まれます。
それを自分で抱えるか他者に渡すかは本人次第ですが、おそらく他者に渡したいと思う人が多いと思います。
これがある意味「楽」をしたいという「怠惰」の感情です。
それが人間の自己防衛本能であり「自己満足という本能のひとつ」だと仮定しています。
七つ大罪のいくつかについて消化方法を考えてみたことがあります
強い負の感情を分解しようとすると、その度に新たな負の感情に細分化されて抜け出せなくなりました。
自分の中だけで本能に近い感情を分解して消化するのは不可能なので、手入れをしながら上手にお付き合いするしかないと最初は思いました。
それでもどうにかならないものかと、とことん考えて色々な事例を検証していくうちに「誰か」という他者の存在があれば可能性があると仮定しました。
消化ではなく「全てを断つ」という概念を持つのも手段のひとつですが、オープンソースの概念も存在して娯楽にあふれている現代の情報化社会では、受け入れるのに抵抗感がある人も多いようで最近はあまり人気が無いようです。
本能に近い負の感情を消化するには「誰かのために」という新たな
「誰かのせい」という感情にも同じく他者が存在しますので、ここで「なにか」が必要になります。
「誰かのせいを誰かのために変換する」には本人の「意思(なにか)」が必要です。
ただ、先に説明した通り「なにか」には個人差がありますので誰でも変換できるとは限りませんし、変換したいとすら思わない人もいるかもしれません。
結局は本人次第です。




