「社員を壊す」経営者
講談を聞いたことがありますか?
講談に興味はありますか?
神田松之丞を知ってますか?
神田伯山を襲名したことをご存知ですか?
この顔に見覚えありますか?
チケットの取れぬ講談師
六代目:神田伯山・・・今日はそんなコラムです
自粛と散歩
以前にも触れた
【腰部脊柱管狭窄症】のため・・・
ジョギングすらできず
着々と目方を増量中の身(人生MAXかも!?)
A社長に勧められ購入した
骨伝導ワイヤレスヘッドフォン
(オンライン会議にも最適)と共に
好きな音楽を聴いたり
様々なコンテンツを聞きながら・・
1時間程度の散歩を
ルーティンとしている今日この頃
そんな中
ひょんなことから 神田伯山(当時松之丞)の
「畔倉重四郎」を耳にする
(今年に入って演じたものが
YouTubeにUPされています)
決して講談そのものに詳しい訳ではなく・・
その内容は・・
極悪非道の男:畦倉重四郎が
どのように殺人を繰り返し
どのように罪をなすり付け
どのように大岡越前に裁かれていくかを
何と19話の構成で
一人芝居の如く「語り」だけで繋いでゆく・・
1話あたり20分~30分程度のそれを
四話づつ5日間で見事に演じ切る
時間も長さも感じさせず
グイグイと引き込んでいくプロの技に
「芸」とか「話術」ってひと言で括るには
失礼なほどの凄み・・・
恐るべし伝統芸能(正直驚いた)!
価値の提供が収入ならば
己にはそういったプロフェッショナルは
(少しはどこかに)あるのか否か
・・・ゾッとさせられたりもした
シンプルさ・・
名人の噺家による1時間弱の古典落語は
「名作映画」って感じだけど
今回のそれは
まるで「連続ドラマ」を
見せられているかのような・・
登場人物の深層心理や人間模様や
時系列や場面設定やサスペンス感・・・
欲や執念といった人間の奥底にある
ドロッとしたものが一話一話に・・・
最後の最後まで
ねっとりとこびりつく
江戸時代のストーリーに
レンタルビデオ屋さんすら必要としない
こんなテクノロジー全盛の時代になった今も
日々の事件や事故にある
動機や背景やトラブルの本質は
時代を超えても
何一つ変わっていないことに気付かされる・・
一方翻って・・
今突き付けられている
日常の大切なこととして・・
「手洗い」や「うがい」といった
これまたテクノロジーとは無縁のシンプルさに・・
我々人間は「動物」であり
心身ともに単純でシンプルな
生身の生き物なんだなって思い知らされる
そもそも小さくて儚くて
生き物として抗うことが出来ないモノが
そこには存在し・・
「少し舐めてました・ごめんなさい」って
立ち止まって頭を下げることを
忘れちゃならないなって・・・
ルールの手前にある
現代を生きる上での最低限のマナーなのかなぁ
・・などと感じたりもしている
いろんな意味で立ち止まる時間
ひとり~家族~仲間~職場~社会(消費者)
・・といった環境や立ち位置
「コロナ禍」による《我慢》を
様々なポジションで問われているが
それより
もーっと・ずーっと手前にある
「生きる」ために必要な《辛抱》・・・
その辺のニュアンスを
私たちは随分と前から
端折って(+さぼって)きて
しまってたんじゃないのかなって
思わずにはいられない
そのツケが「いま」
だとしたら
順応(対応)する部分と
核に据えておくモノとを
見極められる大人で居たい
話を戻そう・・・
ロックでもジャズでも
小説でもエッセイでも
映画でもドラマでも
落語でも講談でも
料理でも裁縫でも
ヨガでもガーデニングでも
若かりし頃のもの(こと)
・・でもいいし
手にとって見たかったもの(こと)
・・とかでもいい
何だか
わさわさ・あせあせ過ごしていた毎日に
ちょっぴり立ち止まる時間を
示唆してくれているのも「いま」
(なのかなって・・)
畔倉重四郎のエンディング・・
大岡越前の裁きに・・
「最後にひと言何かあるか」と問われ
「俺は地獄に行かない
今の世の中を我慢しながら生きてる
お前らの方がよほど “地獄” よ・・」
と唸って幕
取っ散らかってしまいましたが
このタイミングで聞けたこの講談・・・
私には意味あるモノと勝手に解釈
みなさんもちょっぴり立ち止まって
自分の胸に手を当てて
・・「何がしたいんだっけ!?」と
少なくとも何かにトライしてみる
・・「いま」なんだと私は思います
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