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新日本保険新聞連載 新米社労士イノキュウの現場からの本音の報告⑩(2025年1月掲載分)
「監督からいただいた最高のお褒めの言葉」(2025年1月掲載予定分)
前回までの3回にわたり、私が社労士・行政書士になった経緯をご報告させていただきましたが、
今回から3回にわたり、私が社労士・行政書士事務所を開業して、本当によかった、嬉しかった出来事について、お伝えさせていただきます。
それは、もうすぐ開業2年目を迎えようとしていた2022年3月13日(日)の昼過ぎに、いきなりいただいた電話からはじまります。連絡をしてこられたのは、私の恩師であります慶応義塾大学体育会ソッカー部の元監督です。(以下、監督と呼ばせていただきます。)
監督は、私が慶応義塾大学体育会ソッカー部(慶應では、サッカー部ではなく、ソッカー部と呼びます。)の1年から3年まで3年間、ご指導いただいた方で、サッカー選手としては、日本サッカーの父といわれたデッドマルクラーマーさんをして「日本のフォクツ」と呼ばせた名選手であり、また、選手引退後は、三菱重工、三菱ふそう、等で、役員・社長を務められた文武両道の素晴らしい人物なのです。
また、監督の一番素晴らしい点は、誰にでも誠実にやさしく、そして、時には厳しく、平等に接する方で、実は私は、慶大ソッカー部に4年間在籍し、練習は1度も休んだことはありませんでしたが、
選手としては、二流・三流の選手で、公式戦出場は1度も無く、また、4年間で一度もベンチにも入れない選手でした。(ただし、3年の早慶戦だけは、15分間、出場させてもらいました。) そんな私にでさえ、いつも、優しく声をかけてくれるきめ細かな心配りのできる優しい器の大きな方なのです。
監督は、慶応大学体育会ソッカー部の監督を丸8年間務められたのですが、その時の多くの選手が
監督を慕い、「○○会」(○○は監督の名字ですが、実名の公表は控えさせていただきます。)という会(ほとんどは、飲み会ですが・・)を作り、毎年、2回くらい集まり、その出席者はいつも30人~40人くらいで、多い時は50人を超えることもあったと思います。
監督の説明が長くなってしまいましたが、そんな監督さんが、私の携帯に電話してきたのです。
私は、すぐに電話に出て、「ご無沙汰しておりまして、申し訳ございません。」「お世話になっております井上久です。」とご挨拶をさせていただきました。すると、いきなり、「お前、遺言書、作れるのか?」と聞いてくるのです。実は、監督は、すでに末期がんで、2年半くらい前から、自宅で闘病生活をしておられるという情報は入っておりましたので、私は、「遺言書」と聞いて、なんともいえない気持ちになりました。しかし、努めて明るく、「○○さん。私は行政書士ですから、遺言書くらいは作れますよ。」「しかし、何で、私に電話してくれたのですか?」と伺うと、「毎年、お前がカレンダー、送ってくれるやろ、わしの家にそのカレンダーが掛かっとるんよ。」「だから、電話したんや」とのこと、
わたしは、こう申し上げました「それでは、まず、お話を伺いたく存じますので、ご自宅に伺いいたします。一番、早く、伺える日は、3月17日(木)ですが、いかがでしょうか?」と申し上げますと、
「よし、わかった。待っているから、よろしく頼む。」と言って電話を切りました。
第1回目の訪問は、3月17日(木)14時00分といたしました。
私は、2008年11月に母を亡くし、その時の遺産相続関係の書類を保管しており、
また、2021年4月の開業前の2020年11月に受けた人間ドックで「膵臓がん」の疑いがあると言われ、(その後の検査で、膵臓がんではないことを確認できましたのでご安心ください(笑))心労で憔悴する妻のために真剣に財産目録と遺言書等を作りましたので、その時の書類を基に、監督に説明するための資料を大急ぎで懸命に作り、当日、ご自宅を訪問させていただきました。
(以下、次回に続く)
②「監督からいただいた最高のお褒めの言葉」(2025年2月掲載分)
ご自宅にうかがうと奥様がお迎えいただき、「井上さん、お忙しいのに申し訳ございません。」「○○の家内でございます。」とご挨拶いただきました。
実は、私は、大学3年生の夏合宿の帰りに監督をご自宅まで車で送り、その際、監督から「まあ、うちでビールくらい飲んでいけや」と言われ(運転手は別の選手でした・・・ご心配なく)、ずうずうしく、遠慮もせず、ご自宅で奥様の手料理の数々をいただいたことがあるものですから、約50年前のことをお話させていただくと奥様も「そうでしたかね~」「うちには、みなさん、お越ししいただきましたので」「そうでしたか」と嬉しそうにお迎えいただいたのです。
監督は、私が想像していたよりはるかにお元気で、足腰は弱っていたかもしれませんが、頭は極めて鮮明で、会話は昔のままです。
「実は、息子から、あとのことを決めておいてくれ。」と言われ、「自分もその通りだと思い、お前に電話したんや」「よろしく、頼む」「それから、ちゃんと費用は請求してくれよな」とこんな感じで話が始まりました。
その後、監督の病気の状況、今のお気持ち、等々、お話を伺い、その後、相続に関する基本的な説明をさせていただき、その中で、遺言書の位置づけと遺言書の種類についての説明を行政書士としてさせていただきました。
最後に、私の持論を次のように申し上げました。
「残念なことに、相続をめぐって、いままで、仲良くされていたご家族が仲たがいされ、中には、訴訟にまで発展するケースもございます。私はその一番の原因は「疑心暗鬼」だと思っています。」
「ですから、決して、強制はできませんが、遺言書を作成した後に、その内容をご本人の口から、直接、相続人の方にご説明いただくのがベストだと思っております。「秘密にしておく。」という考え方の方もおられますので、決して強制はできませんが、疑心暗鬼を起こさせない最善の手段は、正々堂々と被相続人様が自分の気持ちを相続人全員に述べられることだと思っています。」
このようなご説明をさせていただきましたところ、監督から
「わしも、そう、思うんよ。」「じゃ、どうしたらいいんや」と言われましたので、
まず最初に、「○○さん、誰のことが一番、心配ですか?」と伺うと
「そんなことは決まってるやろ、こいつに」と奥様のことが何よりも心配との意思表示をいただきましたので、「では、何かも全部、奥様に相続ということもできるのですよ。」と申し上げましたところ、
「そうか、だけど、息子と娘にも、少しは残してやらないとな。」というような会話が展開し、ご本人の最終的なご意思を確認できました。
もう、時間は、午後5時くらいになっていたでしょうか、
「では、次回までに、遺言書の原案と遺産分割協議書、財産目録等、必要な書類の原案を作ってまいります。少しだけ、お時間をください。今日は、たいへん、お忙しい中、誠にありがとうございました。」
とご挨拶をして、失礼させていただこうとすると、
「お前、めしぐらいくってけよ。」「わしも一杯飲みたいんや。」と言われ、
「えっ、飲みたいって、いいんですか?」と奥様の方を向いて申し上げると
「せっかく、来てくれたんだから、当たりまえやろ」とおっしゃり、奥様も
「言い出したら、聞きませんから、井上さん、お付き合いしてあげてください。」とおっしゃられるので
「承知いたしました。」と申し上げ、ご自宅の近くの和食レストランに行きました。
そこで、監督は、自分の身体がしんどいにもかかわらず、私に気をつかっていただき
「遠慮せずに食えよ。お前、飲めないんか」とおっしゃりながら、ご自身は日本酒を2合、お飲みになられました。
私は、「すみません。今日は、車で、来ていますので、お付き合いできませんが、ノンアルコールビールをいただきます。」「次回は、電車で参りますので、よろしくお願いします。」と申し上げました。
さらに、自分はおそらく、食事どころではないはずなのに、私に気を使わせてはいけないと思われたのでしょう、頑張って、無理して、召し上がるのです。さらに、私に気を使って、努めて明るく振舞われるのです。私は、何とも言えない気持ちになりましたが、このような場に居させていただける幸せを感じ、神様に心から感謝した次第です。
(以下、次号に続く)
③「監督からいただいた最高のお褒めの言葉」(2025年3月掲載分)
そして、4月7日(木)の13時30分に2回目の訪問をさせていただきました。
前回の後、財産目録、遺言書、遺産分割協議書等、必要な書類の原案を郵送しておりましたので、
打合せ自体は極めて順調に進み、
「息子と娘に話をしたら、「それで、いいんじゃない。」という返事ももらったので、これでいこうと思う。」
「実際には、いろいろ、あると思うが、よろしくお願いします。」と監督と、奥様が頭を下げられるので、「恐縮です。」「少しでもお力になれれば、なによりも嬉しゅうございます。」「どうぞ、よろしくお願いいたします。」と打合せはあっという間に、終りました。
実は、前回(2022年3月17日(木))の訪問の後に、○○会(監督を慕うOBが監督を囲んで一杯やる会です)の多くの先輩から、「井上、久しぶりに○○会をやりたいんだが、監督の体調はどんな具合だ?」「○○会、出来るか」と聞かれたものですから、3月17日(木)の状況をご説明申し上げ、「ご自宅の近くの監督行きつけの和食レストランであれば、大丈夫だと思います。その場合、私が車で送り迎えさせていただくことを奥様に約束すれば、おそらく、奥様もご了解していただけると思います。」と説明したところ、「井上、それじゃ、監督と奥さんの了解、取ってもらえないか?」「日程は、任せるから」という指示をいただいておりましたので、○○会の話を切り出しましたところ、
「よし、わかった。」「お前に任せるから、よろしく、頼む。」と監督から言われ、奥様からも「井上さん、ご苦労おかけいたしますが、どうぞ、よろしくお願いいたします。」と言われ、5月4日(水)12時30分~の開催が決定いたしました。
そして、5月4日(水)に約3年ぶりの○○会が開催されたのです。監督の体調のことを考え、
各学年、3人くらいまでという人数制限をいたしましたが、それでも最終的には総勢23名の会になりました。
この中でもびっくりしたのは、監督の人間性です。末期がんの闘病生活をしている人なのに
参加者一人一人に気をくばり、冗談を言って笑わせ、全員を楽しませるのです。私は、心底、「この人はすごい人だなあ」と思いました。
さらに、会の終盤に参加者一人一人がメッセージを述べるのですが、私のメッセージの後に
監督から「みんな、よく聞いてくれ。今、井上に世話になっとるんよ。」「本当に良くしてもらって助かっています。」このあと感動的な一生、忘れないお言葉をいただいたのです。
「井上は(サッカーはへただったけど)、仕事はできるぞ。」(「サッカーはへただった。」は、実際には監督の口からは発せられておりませんが、聞いている全員がそのように感じたと思います。)
私は、胸がじ~んとなり、「ありがとうございます。」「最高のお褒めのお言葉をいただき、感激しております。」と感謝の言葉を返させていただきました。
同時に、いろいろな試練があったけど、行政書士になって本当に良かったと思った瞬間でした。
その後は、12月に一度、お会いいたしましたが、ご自宅にうかがうこともなく、年が明け、とくにご連絡もいただかなかったので、どうされておられるのだろうと思っておりましたところ、
2023年6月12日(月)午前8時00分ご逝去の訃報が慶応義塾大学体育会ソッカー部からメールで入りました。
私は、奥様に連絡したい衝動に駆られましたが、混乱させてはいけないと自重いたしました。
すると、6月19日(月)に奥様から携帯に電話が入り、「井上さん、ご存じかもしれませんが○○が亡くなりました。」「本当に井上さんには、よくしていただいて、感謝いたしております。」「○○からも、何かあったら、井上さんに相談するようにと言われていますので、お電話させいただきました。」とのこと、
私は、一度、お伺いしたい旨、お伝えし、ご子息とお嬢様を交えてお話ができる6月25日(日)にお伺いすることにいたしました。
6月25日(日)に奥様、ご子息様、お嬢様とお会いいたしましたが、相続については、監督が、直接、自分の意思を伝えており、何の問題も生じないことを確認し、実際の手続は税理士、司法書士にしてもらった方がいいことを説明し、その上で、何かあれば、いつでもご連絡いただくことを確認させていただきました。
最後に、奥様、ご子息様、お嬢様、さらには、ご子息様の奥様からも
「井上さん、本当にありがとうございました。」「また、これからも、よろしくお願いいたします。」との感謝のお言葉をいただき、改めて、行政書士になれた幸せと喜びを感じた次第です。



