綿布団のような薬剤師を目指す
富士市富士宮市にて在宅医療に携わっている薬剤師の栗原です。
今日は忘れもしない3/11。14年前、私は東北は福島の小さな教会の中に住んでいました。築40年の会堂でした。冬になると西にある吾妻山から吹き下ろす冷たい風で、部屋の中は冷蔵庫のようでした。
でも当時は私も結婚2年目。若い夫婦の力でそんな環境も乗り越えていたように思います。
妻が2人目の息子の出産後で、地元の静岡に帰って、私は1人で福島の地にいました。
そんな際、震災が起こりました。外出していたので、道路脇の塀が揺れていたのを覚えています。家に帰ると冷蔵庫も倒れてガチャガチャでした。電気も付かず、このままどう過ごすか途方に暮れている中、固定電話のチリチリという音が鳴りました。
義父からの電話でしたが、お世話になっている宣教師の先生からの情報提供で、私の住んでいた福島市の方にも放射能の塵が降る可能性を示唆する話が伝えられました。
まだ福島市内は静まり返っていましたが、私は出産後の妻を不安にさせるわけにもいかず、言われるままに顔にバタスタオルを巻いて、自動車に乗って西に向かい、栗小峠を超え米沢の地に向かいました。米沢では停電が無かったため、インターネットカフェで休息を取り、テレビを見ていました。
すると原子力発電所が爆発する映像が繰り返し流されていました。何回も映像が流れるので、一体何機の発電所が爆発しているのか分かりません。これは当面、戻れないだろうと腹を括り、日本海側を通って妻子供のいる静岡へと向かいました。
その後、1ヶ月は大人しくしていましたが、徐々に東北へのボランティア活動の後方支援などを手伝っていました。
次第に自分の気持ちも東北へと戻り、1週間かけてビールケーキを焼いて、自ら車のハンドルを握って東北へと向かっていました。
それから一年半くらいでしょうか。東北にやってくる海外からの支援団体などの協力を得て、仮設住宅の方々への慰問をしたり支援物資を届けたり、忙しい日々を過ごしました。
すると、どういう繋がりかは分かりませんが、同じく東北の海岸地区の方の同労の支援活動をしている方々から連絡があったりして、情報を共有したり実際に一緒に活動しながらボランティア活動に明け暮れました。
仮設住宅で音楽慰問として、九州から本田路津子さんをお呼びしてコンサートを開いたこともありました。
その間、妻子供は妻の妹を頼って大阪の地にいました。
そんな生活をずっとするわけにもいきません。私はそこで東北での活動を切り上げ、たまたま立ち寄った四国の高松の教会に住まわせてもらう形で生活の場が与えられ、家業だった薬局での働きで生活の糧を得るために高松の地にある薬学部の扉を叩いて薬剤師の免許を取得したのでした。
思いもしない形で自分の今もあります。東日本大震災で、少なからず人生の方向転換を迫られた1人として、この日のことは今後も覚え、繰り返し思い起こし、その意味を問うていきたいと思っています。



