5)傘鉾奉納
西古川町地蔵祭り
6月1日の小屋入りがあり、次の町の行事としては「地蔵祭り」です。
【平成27年火除け地蔵祭り】
寛永十一年(1634)には、長崎くんちが正式行事となった同時期に 日本最初のアーチ式石橋・眼鏡橋が完成し長崎の石橋群の始まりとなりました。
その10年後袋橋が完成しました。
長崎では、寛文三年(1663)「寛文の大火」がおきました。
寛文十二年(1672年)に 古川町が分割され本古川町、東古川町、西古川町がつくられました。
それは、貿易差銀分配及びくんちの経済的な負担を考え、焼失各町新たな市街の区画整理が始まりでした。
「長崎くんち」に初めて西古川町が参加したのが、延宝二年(1674年)です。
長崎で 大火災発生
明和三年(1766年)西古川町の林田邸より風呂場の火元不始末により出火、
瞬く間に十六町、2794戸を焼失する大火災となりました。
その約十数年後、再び火災発生
天明二年(1782年)袋町の河内屋喜平次宅より出火、15戸を焼失しました。
度重なる火災に、・・・
付近の住民は、・・・
その年三月に袋橋袂に『町内安全鎮護』の石柱及び地蔵が地域住民より寄進されました。
石柱及び地蔵のおかげで・・・
その後は、西古川町界隈に大火は、おこっていません。
以来、約233年前から西古川町の火除け地蔵、守護地蔵様として祭られています。
古くより 毎年七月二十四日は、お地蔵様に感謝の日として町内で、お地蔵様祭りを盛大に執り行っています。
今もなお、西古川町のみではなく地域住民の信望が深く
年代不詳 紺屋町町民より『香炉』
大正十五年 西古川町町民より『りん』
昭和二十五年 本下町町民より『幔幕』 等々
の寄進がありました。
昭和57年7月23日長崎大水害がおき、中島川においても石橋群が流失するという被害がおきました。
その後「防災対策の上にたった都市作りは、いかに有るべきか」という策定委員会での話し合いの結果、河川激甚災害対策事業として眼鏡橋のかかる両岸約200Mの治水工事計画が決定され、バイパス水路を設ける事になりました。右岸側は昭和63年に完成しましたが、左岸側は家屋が隣接し住民の立ち退き等で約20年近くかかり、平成十五年工事に着工しました。そういうなか、洪水また家屋立ち退き工事等でお地蔵様の安置場所がなく長期間、町内の方に仮保管して頂いていました。
バイパス工事中の仮保存時の写真
「町内安全鎮護」の碑(バイパス工事中の保存時の写真)
地蔵堂の斜め後ろにひっそりと建っています。
西古川町地域の災害に対する『安全鎮護』の石碑と共に、工事完了と共に、元の通り袋橋のたもとに、地域住民の願い通り戻ることができました。
次のコラムへ・・・・つづく