読書日記「ちくま日本文学039 堀辰雄」
加藤新太郎の著書のどこかに「判決のスジとスワリ」という項目で書かれていた箇所がある。
どういう内容であったか、どの書籍であるか思い出せないのだが、時々、証拠を引用して事実認定は一応しているのだが、スジとスワリが悪く、結論において完全に誤りという判決に出会う。
こういう判決は、紛争の解決機能を果たさず、敗訴当事者には裁判所に対する不信感しか残さないし、裁判所に対する信頼を損ねることとなる。
ことに、高裁判決でこうした判断がされると、上告をしても最高裁はほとんどこうした判決を省みないから、誤った判断が積み重ねられることとなる。
マチ弁で、一応判決ではそれらしく書いているが、結論において誤りであって、裁判所が世の中の物事を何も分かっていないと感じたことのない者はほとんどいないのではないだろうか。私の周りでも、「全く世の中のことを分かっていない裁判官が一定数いるよね。」という話をよくしている。
なぜ結論において誤るかというと、誤った結論を導き出す裁判体や裁判官が人間というものを知らず、世の中の常識を知らず、物事に対して一方的な見方しかしていないからである。
思い込みでそれに合致する証拠評価をするということもある。
また、結論においては誤りではあるが、正しい判決を書こうとすると、そちらの判決の方が手を取られるから、安きに流れるということもあるであろう。
そうでない裁判官は、結論において正しい判断をするし、正しい判断をすることの方が判決を書くことは苦しいが、そうした手間を惜しまず、記録を丁寧に読み込み、敗訴当事者でも納得する判断をするものである。
どうしようもない判決をもらうことが多発すれば、裁判による紛争解決は機能しないのである。
裁判所に絶望しないような判断が望まれるのである。