読書日記「ちくま日本文学039 堀辰雄」
司馬遼太郎の歴史エッセイに書かれていたが、宗教でも「何もしなくていい」という宗教は流行らないそうである。
それなりに何かをしないと、人という生き物の性質上、「何かをしたい」と思うので物足りないそうである。
もちろんこれは一般的な性質を述べているのであり、病気等で何をする気も起こらないとか、そういう例外はあることは前提にしていると思われる。
宗教行為でそれ相応の格式や決まりがあるというのはそういうことなのであろう。
仏陀が仏教を始めた頃は、葬式などを執り行うこともなかったようである。
確か、司馬遼太郎の歴史エッセイでは、仏陀が始めた仏教(小乗仏教)と、現在の日本の仏教(大乗仏教)との間には何の関係もないことが証明されていると書かれていたので、それはそういうものなのかもしれない。
推し活なども、何かをしたいという人間の性質から来ているのかもしれないなと思ったりしている。
そういう、「何かをしたい」という人の性質につけ込んで、消費者被害が発生することがあり、人の性質上これを防ぐことは難しいのかもしれないとも思いつつ、高校生や大学生に対する法教育というものの重要性を痛感する事件がたまに起こってしまうことに心を痛めたり、弁護団で対応することになる日々である。