読書日記「百年の孤独」
私の自宅は隣が児童公園となっており、鉄棒がある。
小学校では逆上がりができないといけないようで、時々庭で葉巻をふかしていると、小学生が逆上がりの練習をしにくる。
たいていは親と一緒で、親に叱られながら逆上がりの練習を延々と繰り返している。
学校の授業で叱られるのであろう。
ただ、小学生の低学年くらいだと(中学年、高学年でも同じか)、手に力がなくなってくるので、長いことやっているともう最初の頃に比べると全くだめになってくる。
親は叱るのであるが、それは無理というものであろう。
中にはかなり大きくなってから、「今まで逃げてたからや」としかり飛ばされて練習している子もいる。
まあ、それはそうなのであるが、逆上がりができないからといって、それが人生で何か問題なのであろうかと思ったりしながら見ている。
もちろん、目の前のことに努力しないといけないことはあるかもしれないが、逆上がりができないからといって、他のことでは才能があるかもしれないのに、画一的に何かができないといけないという教育とはどんなものであろうかと思いながら見ている。
そういえば、ビートたけしも跳び箱が跳べなかったというような話を聞いたことがあり、しかしビートたけしの活躍を見ていると、跳び箱を跳べることがどれだけ社会に出てから役立つのだろうとも思っている(どうだったか記憶はあいまいなので、間違っていたらご容赦願いたい)。
時々、親の教え方も間違っていることがあり、それでは一生できないであろうなあと思いながら、しかし、ここで私が声をかけるのもまたよろしくないであろうと思いながら見ている。
フィリップマーロウではないのだが、私はけっこうおせっかいなところがあるのである。
家の前でクラウチングスタートの練習をしている子がおり、そのスタートでは全く踏み出すときに力が伝わらないと思い、つい言ってしまったことがあり、あとから言わなければよかったかなと反省したのだが、その後、その子は部活でスタートダッシュに磨きがかかり、短距離で2番手のランナーになったと聞いたので、あながちおせっかいも悪くはないとも思っている。
逆上がりをしている親子へのアドバイスは中々難しいし、1人でしている子どもに声をかれたら変質者と間違えられてもいけないので、中々悩ましいのであるが、そもそも逆上がりができないと体育の授業でつるし上げられるような世界はどうなのかと根本的なことを考えている春の1日である。