在りし日の小次郎
前にも書いたのだが、司馬遼太郎氏はあれだけの歴史作品を書かれたが、甲冑や刀などの古美術品は一切持たなかったということである。物に淫してはいけないというのがモットーであったということである。
古書は山ほど買い込んでおられたようだが、それは淫するというよりは、もちろん趣味的なところもあっただろうが、司馬氏の職業小説家として必要だから買われていたものと思われる。
小説は虚構ではあるが、歴史を書くときに史料から外れる訳にはいかないため、どれだけの史料を読まれたのかとも思うし、「全てが虚構なのだろう」と思いつつ読んでいくと、実は少しの史料に基づいて整合性が保たれていたりして驚嘆させられることがある。
私は常々、少しお金を持った弁護士が高級外車に乗ることに対して批判的である。私自身が自動車に興味がないこともあるが、車は道具であり、走ればよいのであって、日本車が安価でもあり、性能もいいのだからそこそこの日本車でよいではないかと思っている。
サッカーに自動車で行くと、みすぼらしい自動車で驚かれることがあるが、自動車にお金をかけるのは愚の骨頂であるというのが私の考えである。
報道によると、清原氏(有罪が確定するまでは無罪推定されるので)は稼いだ50億の生涯年俸を全て使ってしまったということであるが、これが真実だとすると、何とも計画性がないことだと思う。報道によると、フェラーリや高級外車を次々と購入していたようであり、真実だとすれば何とも無駄なお金の使い方をしたものである。
その一方で、私は書籍にお金をかけることは司馬氏と同様、全く問題がないと思っている。仕事上、様々な分野の知識が必要であるし、弁護士法も深い教養の保持を求めているからである。私には品性がないのが問題であるが。。。
一時期万年筆の蒐集に凝っていて、あれは「物に淫して」いたと自分でも思うのであるが、メモを取ったり相当酷使するため、万年筆は次々に壊れていっており、今後の弁護士人生で使うと思えば、まあ仕事道具と思うと、かろうじて物に淫していないと弁明できるかもしれない。ボールペンでいいではないかといわれるかもしれないし、真実をついているところもあるが、慣れてくると万年筆でメモを取る方が圧倒的に速いのである。
と言い訳をして、2月もあと10日である。
今年の1年もこうして早く過ぎていくようである。