読書日記「百年の孤独」
我が家に二代目小次郎がやってきた。
初代小次郎の墓もまだ建てておらず、非常に彼を迎えることについては悩んだ。
犬と別れてもう二度と飼えないという人もいるし、もう少し間を空けるべきではないかという思いもあったし、それは今でもある。
初代小次郎の世話をしているつもりでいたが、その実、私は小次郎によって生かされていて、面倒をあの小さな初代小次郎に見てもらっていたのだということを痛感するようになった。夜にウイスキーを飲んでいる時も、私の横で見ていた黒い瞳はもう居ないのである。
犬は、自分が亡くなった後の飼い主の幸せだけを願っていて、早く次の犬を迎えてあげることが亡くなった犬にとっての幸せという考え方もあった。
初代小次郎が亡くなって数日して、初代小次郎に似たパピヨンを毎日ネットで探して「かわいいなあ」と思っていた。それで心の隙間を埋めていたところがある。
関西ではあまりパピヨンの子犬は居なかったが、たまたまこやつが京都に居たのである。そして、色も顔つきも亡くなった初代小次郎に似ているのである。
誕生日も初代小次郎と近い3月ということもあり、見に行くだけと思ったが、本人に会うと、そうはならなかった。
名前は結局、小次郎(二代目)とした。
まだ初代小次郎は自宅の中でうろうろとしていると思うし、ひょっとしたらすねているかもしれない。あるいは、「新しい子が来たね。」と喜んでくれているかもしれない。
初代小次郎のお骨に朝晩話しかけているが、話しかけていると二代目はいるものの、じんわりと涙がにじんでくる。44歳にもなって情けないが。
今になって思うと、初代小次郎にああしてやればよかった、あんなことをしなければよかったなど、様々な思いがある。
二代目小次郎には、初代にしてあげられなかったことをしてあげて、しなければよかったことはしないで行こうと思う。
新しい犬を飼えない人からすれば、私がこうして二代目を迎えることは理解出来ないかもしれないが、二代目とお別れの日が来るまで、初代同様、かわいがってあげたいと思うのである。