在りし日の小次郎
豊臣秀頼が秀吉の実子であるかどうかは、論争がされてきた。秀吉研究で有名な桑田忠親氏は実子説である。
先日読んだ河原ノ者、非人、秀吉の作者である服部秀雄氏は史料を丹念に読んで、実子ではないことを論証している。
前後の関係や、残されている史料からして、秀頼は実子ではなさそうである。
秀吉は自ら書いた書簡の中で、「今までに子はなかった」と言っていることや、淀君が懐妊した直後、淀君の周辺の女房衆が粛正され、殺されているのである。秀吉は子はいなかったが、子どもが好きで、数多くの養子を取り、また、加藤清正や福島正成を養育している。
秀頼は、秀吉の子ではなかったが、秀吉が秀頼を子として認め、豊臣家を存続させることを決めたとみるのがどうも真実らしい。
ねねは、大阪城の落城に関して、徳川方についていたが、秀頼が実子ではないとすれば、ねねの行動も理解できるし、後継者とされて関白となっていた豊臣秀次はねねの縁者であり、秀吉の子ではない秀頼と比べれば豊臣政権を引き継ぐことの合理性はあるので、秀次が秀吉に抗議をし、その結果殺されたという服部氏の説もまた理解出来るものとなるのである。
あの時代に、秀吉は子をなすことが出来ないとみられており、豊臣家恩顧の大名が、秀頼を攻めることが出来たというのも、実子ではなく、淀君の不義の子であるとすれば、これもまた理解しやすいところであろう。
そうすれば、いくら大坂の陣で真田幸村が活躍したとしても、豊臣恩顧の大名が味方になる可能性はなかったことになり、幸村の奮迅はむなしいものに見えてくるのである。
ただ、幸村は、そのようなことは全て分かった上で、死に場所を求めていたと見ることも出来るのだが。