読書日記「百年の孤独」
司馬遼太郎の本を読んでいると、日本には公という思想が昔からあったとされている。
いち私人ではなく、自らが天下のものであり、公のものであるという思想である。
アジア諸国においては、公という思想はあまりなく、中国では官吏になり任地に赴任すると、民衆から略奪することしか考えていなかったといい、1人官吏になると、一族郎党はそのものに群がり集まってその役人になったものの賄賂であるとか、横領した民衆の財産でもっていとこやはとこまでが喰いあさるというのが実態であったという。
三国志の諸葛孔明は、三国のうちの蜀の宰相であったが、死に際してほとんど私財というものがなかったとされるが、これは中国の官吏では考えられないことであったということになろう。
日本には、自らを公のものとする思想がどのようにして出来上がったのか分からないが、今でも自らを公人と規定する人がいるように思われるし、そのような思想は今でも生きているように思われる。
ただ、昨今の政治家や官吏を見るに、司馬も言っているが、極めてアジア的な官吏となってきているように思われる。
つづく。