読書日記「百年の孤独」
法律相談などで相談を聞いたりしていると、現在依頼している弁護士に対する苦情であったりして、セカンド・オピニオンが欲しいというものであったりすることがある。
そうすると、依頼者からお金を貰っているにも関わらず、ほとんど仕事をせず、適当なことばかりしているとしか思えない弁護士の相談を聞くことがある。
弁護士が依頼者からお金を貰って仕事をしているということの重みというものに対して感覚が麻痺しているとしか思えないのである。あるいは、何年かしているうちに、そうした感覚が薄れていくのかもしれないが、一歩間違えば、紛議調停(事件のことについてお金の精算等について弁護士会が間に入り調停を持つ手続)や懲戒になるかもしれないことを認識すべきであろう。
上に書いたのは経営している弁護士の話であるが、勤務している弁護士であってもこれもかわらない。事務所から、司法修習を終えただけで、世間から見れば高額な給与を貰えているということの自覚を常に持ち続けるべきである。
私は勤務弁護士の頃はボスよりも早く出勤し、ボスよりも遅く事務所を出て、ゴールデンウィークもボスは飛び石のところは事務所を休んでもいいとして、事務員やボス弁、他の勤務弁護士は休んでいたが、私は出てきて仕事をしていた。最大時で、自分の給料の15倍くらいは私単独で事務所の事件で売り上げていた。事件で手を抜いたことはない。
常に、事務所から給与を貰っていることのありがたさ、重みを考えていたし、その先には事務所にを信頼して依頼をしてくれている人がいることを考えていたからである。
そうでなければ、給与は貰えないし、会社であればクビにされるからである。プライベートの予定は常に後回しで、仕事を優先させていた。
ワーカホリックという言葉もあるが、本来そういう人間でなければ、弁護士という仕事を選択してはいけないのである。最近医師の先生が同趣旨のことを言われていたことを聞いて、その思いを強くしている。
それがお金を貰うということの重みなのである。これは経営弁護士であっても勤務弁護士であってもかわらない。
常に自省していないと、人間は安きに流れるものであるが、昨今、甘い弁護士の姿勢を見るにつけ、そういう弁護士はこの業界から居なくなって欲しいと思ったりしている。