読書日記「百年の孤独」
吉岡側の記録では、吉岡清十郎と京都所司代にて立会い、武蔵と清十郎は相打ちで、伝七郎との勝負の前に武蔵は京から逃亡してしまったという。
武蔵の養子の宮本伊織によると、吉岡一門は滅亡したとされるが、1614年に猿楽の講演がされている場で、吉岡又三郎なるものが警護のものと争いを起こし、数名を斬った後自身も殺されるという事件があったということが、「本朝武芸小伝」にある。
これを前提にすれば、吉岡家はその後も続いているので、伊織が吉岡家が滅亡したとしているのは誤りであるということになるが、係累が多数いたということも考えられるので、どちらが正しいかということは断定出来ない。武蔵の系譜は養子の伊織や二天一流の後継者によって伝わったが、吉岡家の系譜は伝わっていないことから、個人的には武蔵の方の主張を容れたいという気もする。なお、吉岡家は染物屋も兼ねていたという説もあり、五味康祐「二人の武蔵」では、吉岡清十郎は兵法家というよりは、染物屋の旦那として描かれている。
武蔵が五輪の書を書いた時期は死期を悟った頃であり、既に後に出てくる細川忠利の知遇を得て、静謐な暮らしをしていたのであって、若い頃の名声を売ろうとしていた時期とは異なり、過去に倒した有名な剣豪達を敢えて指摘するということをしなかったのかもわからない。
その後の武蔵の足取りで言われているのは以下のようなものである。
伊賀にて鎖ガマを使う宍戸某と戦い勝利する。
江戸にて柳生新陰流の剣士2人をあしらって倒す。
武蔵の人生のハイライトともいえる巌流島の決闘についても、様々な異説がある。
まず、佐々木小次郎の人となりからして不明である。
一般に言われているのは、佐々木小次郎は中条流を習い、富田勢源の弟子で、勢源の小太刀の打ち手を長大な太刀でつとめるうち、18歳にて悟るところがあり、一流を立てて巌流と称し、細川家の剣術指南役を務めるようになったところ、武蔵が小倉に来た際、藩主の声かがりで対決することになり、巌流島(当時は船島)で戦い、武蔵が勝利を収めたというものである。ただ、富田勢源では時代が合わないため、勢源の弟子の鐘捲自斎の弟子とする説もある。なお、自斎は伊藤一刀斎の師匠でもある。
これに対し、武蔵側は多勢で船島に渡り、武蔵が小次郎を倒した後、武蔵の弟子がよってたかって小次郎を打ち倒したという説もある。
小次郎は、細川家が治めていた小倉豊前の地元の豪族で、剣術をよくし、地元との融和策で剣術指南役として細川家で召し抱えたが、傲岸不遜で人を人とも思わない人物であったため、武蔵をして決闘という形で小次郎を成敗させたという説もある。これによれば、武蔵は決闘という形をもって政治の道具に使われたわけであり、小次郎が倒れた時に打ち倒した弟子とされる人物達は、小次郎に平静恨みを持っていた者達ではないかという思いもある。武蔵は多人数の弟子を取ったことはなく、生涯放浪していたので、豊前小倉にそのような多人数の弟子がいたとは考えがたい。
武蔵は決闘のつもりで船島に渡り、小次郎を打ち倒したが、小次郎の命まで取るつもりはなかったところ、検視役として来ていた藩士たちが突如として小次郎をよってたかって打ち倒したので、自らが小次郎成敗のための道具として使われたことを悟り、苦々しい思いを持った戦いであったのではないか。
この説を採れば、武蔵が後半生で船島の対決をあまり語らなかったということもうなづけるのであるが、どうであろうか。