読書日記「百年の孤独」
武蔵は自ら習った剣であるという説と、父親の無二斎から武芸をしこまれたという説などがあるが、父親が武芸者であるのであれば、普通は子にその流儀を伝えるため鍛えたであろうから、完全に独習ではなかったのではないかというのが私の見方である。
また、武蔵は複数いたという説もあるが、武蔵のような特異な人物が同時代に複数いるというのは考えがたく(司馬はその説を採っていて、全面的に賛成したい)、武蔵の名声を借りて武蔵を騙ったものはいたかもしれないが、武蔵自身はやはり一人であったと見るのが妥当であろう。
武蔵の最初の試合の相手は有馬喜兵衛である。13歳の時に有馬喜兵衛が高札を掲げて対戦相手を求めていた時に、武蔵が相手となると墨書し、寺の住職が「子どものしたことであるので」と謝罪したが、有馬喜兵衛は「子どものしたことであってもこのままでは自分の沽券に関わるから、試合の場に来させて謝罪させるように」ということであり、当日住職が連れて行くと、武蔵は謝罪するどころか戦い、勝利をおさめるのである。
ただ力の強い、体の大きい13歳では旅から旅に自分を売り込むべく放浪している兵法者を倒すことは出来ず、やはり兵法の基礎を武蔵は身につけていたというべきであろう。
その後、秋山某という兵法者も倒している。
吉岡一門との戦いは、武蔵は五輪書でも詳らかに書いていない。
武蔵側の記録と、吉岡側の記録では違いがある。
武蔵側の記録は、よく知るところであるが、蓮台野にて当主の吉岡清十郎を倒し、三十三間堂にてその弟の吉岡伝七郎をも倒している。その後、一乗寺下り松での吉岡一門との決闘になり、武蔵は今度は遅参せずに早々と現地に着き、敵の総大将である幼少の名目人を斬るーというストーリーであり、吉岡一門には全くいいところはない。
しかし、吉岡側の記録では全く異なっているのである。