宮本武蔵1

中隆志

中隆志

 宮本武蔵といえば吉川英治の宮本武蔵を連想するのが一般であろうが(モーニングで好評連載中のバガボンドの原作でもある)、もちろん吉川英治の作品は小説であり、その多くはフィクションである。
 あれが史実だと誤解している人もいるようであるが、武蔵に関してわかっていることは極めて少ない。
 武蔵ほど作家の興味を引くというか、吉川作品があまりにも日本人に与えた影響が大きかったためかはわからないが、歴史・時代小説家によって書かれている剣豪もいないのでないか。武蔵の人生は謎に満ちており、それが故に自由に描くことが出来るということも理由かもしれない。

 宮本武蔵を描いた作品で私が読んだのは、吉川英治「宮本武蔵」、司馬遼太郎「真説宮本武蔵」「宮本武蔵」、津本陽「宮本武蔵」、五味康祐「二人の武蔵」、藤沢周平「二天の窟」などがあるが、隆慶一郎が描いた「かくれ里苦会行」の主人公は武蔵に育てられたことになっていて、武蔵がところどころでいい活躍をする。その他、武蔵が脇役で出てきて「ニヤリ」とさせられる小説はあまたある(五味康祐の柳生武芸帳や、津本陽の柳生兵庫介にも名脇役として出てくる)。

 吉川英治が宮本武蔵を書くことになったのは、直木三十五と菊池寛の武蔵名人・非名人の対決に対する結論を出すためであったとというのは有名な話である。直木賞の直木三十五である。

 後生の作家は、おおむね武蔵の剣技が剣豪と呼べるレベルに達していたことを前提に、その精神がどうであったかを書いているように思われる。

 武蔵の剣が同時代で突出した技前であったことは、同時代に生きた渡辺幸庵という人物の証言に見ることが出来る。渡辺幸庵は、柳生宗矩の高弟で柳生新隂流の印可もとった腕前であった人物で、主家が取りつぶしにあった後、中国に渡ったり様々な経験をして、晩年は加賀の前田家で過ごしていた。130歳まで生きたので、その話を加賀藩の藩士が聞き取った内容が「渡辺幸庵対話」という書物として残っている。
 その中に、「竹村武蔵は、但馬に比べれば、碁にていえば井目も武蔵強し。」という記述がある。
 但馬とは柳生但馬守宗矩であり、大阪の陣では秀忠の陣を奇襲してきた大阪方の攻撃に際し、7名の武者を切って捨てたほどの腕前である。柳生新隂流の継承者は甥の柳生兵庫だとはいえ、その宗規をして、「井目」も差があるというのであるから、武蔵の強さがわかる。
 なお、武蔵は江戸にいた時に竹村姓を名乗っていたことがあるので、竹村武蔵は宮本武蔵のことである。

 武蔵の出生地については播磨であったり作州であったりと争いがあるが、武蔵は別離した母親に逢うために山を越えて播磨まで行っていたという説があり、どちらであってもよいといえばいえる。
 後に武蔵の養子である小笠原忠政に仕えて家老にまで出世しているとからして、武蔵の出自は卑しからぬものがあったと私は推測しているのだがどうであろうか。

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