読書日記「百年の孤独」
南極物語は、極寒の南極に置き去りにされた犬たちのうち、太郎と次郎が生きていたということで、感動の物語とされている。
小さい頃、父親と見に行った記憶がある。
しかし、父親は見終わって、「あれが人間やったら置き去りにされて素直に飛び込んでくるかな」と言っていたのが印象に残っている。
人間の都合で置き去りにしたのに、犬たちが生きていたことが感動の物語にされてしまっているということである。
人間の都合でどのようにでもされるが、太郎と次郎は喜んで人間の胸に飛び込んできたが、犬は無私の愛情を持つからそうできるのである。
人間だと無私の愛情という訳にはなかなかいかないであろう。人間の心には闇が多いからであり、そうした闇を描く作家としては松本清張は秀逸な作家である。
俊寛は島に置き去りにされて平家を呪うが、俊寛も島から本土に帰りたかったのである。しかし、これは俊寛に権力者に対する罪があったからで(立場が逆転していたこともあり得るのである)、南極物語のように人間の勝手さで連れていって、放置してきたというものではない。
宇喜多秀家も八丈島に流された。宇喜多秀家は秀吉の一字を貰い寵愛された武将で、宇喜多直家という稀代の謀略家の息子である(直家は死に際して、息子の行く末を秀吉に頼み、秀吉も秀家を取り立てた。直家の妻が稀代の美女で、秀吉は直家の死後、ほどなく直家の妻を愛妾にしたという説も伝わっている。余計なことだが)。関ヶ原では石田三成と並んで、もっとも奮戦し、家康の馬前まで肉薄したが、捕らえられて八丈島に流された。
八丈島では苫を編むことで生計を立てて、確か90歳近くまで生きた。
福島家の江戸に酒を運ぶ船が嵐のため八丈島にたどりついた時、ぼろぼろの衣服を身にまとい、日に焼けた老人と見える人物が出てきて、「自分は宇喜多秀家である。何年も酒の味を知らない」として酒を所望した。
福島家の家来たちは、あまりの秀家の変わりように涙なくしてその姿を見ることが出来ず、主人にどのようなしかりを受けるかも顧みず、秀家に酒を与えたという話がある。
後にこの話を聞いた福島正則は、家来を叱るどころかほめたという。
その福島正則も、江戸幕府により詐欺的に改易させられている。
まとまりがないままであるが、宇喜多秀家ですら八丈島のつらい暮らしに矜恃を保つことは出来なかった。人の心の難しいところということであろうか。恨みつらみを越えてしまうこともあるのかもしれない。
人が挟持を保つことも、浮き世の中では難しいのかもしれないが、挟持を失いたくはないものである。