読書日記「百年の孤独」
小さい頃、鬼ごっこやかくれんぼなどの遊びをしていて、さらに小さくて、まともにやれば鬼ばかりやらされてしまうような子が仲間に入ることがあった。よくあるのは近所の子とか、誰かの弟とかであり、こうした小さい子は小さい子なりにお兄ちゃんたちの仲間に入って遊びたがるのである。
こうした時、小さい子を「チャーリンボ」として扱い、この子は仲間に入っているようでいて、しかしタッチされても鬼にならず、見つけられても1人で鬼をやらされることはないという扱いにするのである。時々鬼ごっこなどでは適当に追いかけたりして、この小さい子を楽しませるのだが、その実は仲間に完全には入れていないのである。
なぜこうした扱いをチャーリンボというのかは分からない。何か差別用語なのか(そうであれば失礼なのだが、そうした呼び名があったということでご理解いただきたい)、よくわからないが、そういう扱いを子どもの中でも社会性というか、そうしたものの萌芽というか、あったということが言いたいだけである。
今弁護士の社会にいると、弁護士の中でもこうした扱いをされている弁護士がいる。どう見ても行動が奇矯であるし、仕事が出来ているとは到底思えないし、実際出来ないのだが、自分では出来ていると思っていて、周囲の弁護士もこうした奇矯な弁護士に注意をして恨まれたりするのが嫌なので、あまりダメだしをしない。自分の事務所の勤務弁護士であれば当然叱るようなことでも、放っておくことの方が多い。仕事も全然出来ないから、依頼者に迷惑をかける又はかけていると思うのだが、弁護士は自由業なので、ある意味仕事のやり方に口は出せない。ある弁護士に頼めば違ういい結果が出るだろうなという事案でも、こうした人が相手方で「奇矯だけど、能力はないし、ああよかった」と思われていることはあると思うのである。
これは弁護士内でのチャーリンボ扱いである。
出来も悪く、何も分かっていないのに自分では出来ていると思いいっぱしの弁護士のつもりだが、まともに相手をして貰えていないのである。
チャーリンボのように、「まともに相手をしてあげているよ」という風に装う弁護士もいるが、彼らは後ろで舌を出しているのである。
あまり結論めいたことも書けそうにないが、チャーリンボは仲間のつもりが、実は違うというような事態に自分が陥っていないかどうか、常に自省しなければいけないように思うのである。