読書日記「百年の孤独」
荘子の中に収められている故事である。
紀省子という闘鶏を育てる名人に、王が自分の闘鶏を預けて鍛えてもらう話である。
10日後、王は名人に預けた闘鶏の仕上がり具合を下問する。王は早く戦わせて見たいのである。
これに対し、「空威張りして闘争心があるからいけません。」という。
さらに10日後、王が仕上がり具合を下問すると、「いけません。他の鶏の姿や声を聞いただけでいきり立ってしまいます。」ということであった。
また10日後、再度王が下問すると、「相手に目を怒らせて己の強さを自慢するのでまだだめです」という。
そしてさらに10日が経ち、王が下問したところ、「もうよいでしょう。他の闘鶏が鳴いても全く相手にしません。まるで木鶏(木で作った鶏)のようで、その徳の前に敵う鶏はいないでしょう」ということであった。
実際に闘鶏をさせて見たところ、名人のいうとおりであり、他の鶏は全て逃げ出してしまった…という話である。
最近の若手弁護士の中には、自分を批判されるともの凄くキレて怒る人がいるそうである。書面がわからないので指摘すると、極めて挑戦的な物の言い方で攻撃してきたり、裁判官が指摘しても、激怒りするだけで話にならない等々、そういう話をよく聞く。
また、経験も何もないのに、妙に自信があるそぶりをして、「自分は出来るのだ」というように吹聴したり、妙にふんぞり返っている人もいる。
これは実は自分に自信が全くないからである。
真実自信があれば、批判されても怒ることなく、むしろ相手の誤りを正せば済むことである。批判されてキレるのは、痛いところをつかれているからである。妙に挑戦的な態度も、内心ビクビクしているため、そのような態度に出てしまうのである。
経験も何もないのに、自信のあるそぶりをするのも同様で、自信がないからこそそのような態度で中身が空虚なところを見せたくないのである。本当に出来る人は、周囲が「あの先生は出来る人だ」という評価が自然に出来ていき、自分で吹聴する必要もないし、ふんぞり返る必要もない。
木鶏の故事は、こうした話が最近になって出てきていることではなく、人間社会に似たような話がありがちであることを教えてくれる。
根拠のない自信は辞めた方がいい。むしろ経験がないことを虚心坦懐に認めて、謙虚にならないと、いつの日か自分に跳ね返ってくる日がくるのである。