読書日記「百年の孤独」
私は作法に疎いので、ナイフとフォークで食べる時は辛い。
後はお葬式など決まり事が多い式も苦手である。作法に疎いからである。
いつも「どうやっけ」と思いながら適当にやっている。これは、小学校1年生の時にハーモニカを吹くことをまじめに覚えようとせず、テストがないことをいい事に適当に吹いていた性格が災いしている。つまりは、作法を覚える気がないのである。これが不思議と仕事となると別なのであるが、基本的に性格がズボラなのであろう。あるいは、弁護士として活動している間は別人格なのかもわからない。
お葬式に参列すると、まず未だに焼香の仕方が分からない。毎回前の人を見て真似ようとするが、皆やり方が違う。確かどこかで3回やるのは実は間違っていて、1回でいいし、額の前にかざすことも必要がないと聞いたか読んだような気もするが、これとても怪しいものである。まあ、誰かが勝手にルールを決めたものであるから、アバウトでもかまうまいというのが本当のところである。故人を悼む気持ちがあれば、それでよいではないかという気がする。
数珠の持ち方も実のところ怪しい。ただ、これは前に何かで調べたところ、宗派によって違うようなことが書いてあったと思う。これも自分の宗派はこの持ち方と誰かが勝手に決めたものであるから、自分の持ちやすい持ち方であればよいであろうと高をくくっている。
私が自然とする持ち方は禅宗の持ち方のようである。
話は逸れるが、確か私の家の宗派は浄土真宗である(田舎も和歌山県の「御坊」というくらいだから、過去に浄土真宗の寺があったはずである)。しかし、もちろん宗派に対する思い入れなどもなければ、一般的日本人程度の宗教心しかない。
ただ、気持ち的には禅宗に惹かれるところはあるといえばあるが、禅僧のような暮らしはしたくないし、禅僧のように哲学的に生きることも出来ない。精神の世界に生きるよりは現実的世界の中でどう生きるかを考えてしまうからである。
ともあれ、故人の冥福を祈る気持ちがあればよいのではないかという気がする。