読書日記「百年の孤独」
戦国・江戸時代初期の武将である。
戦国時代は、お金は卑しいものとされ、武士がお金にこだわることは卑しいこととされていた。
有名ではあるが、今大河ドラマ天地人(ただし、私は一度も見ていないし、これから見る予定もないが)の主人公である直江兼続の逸話がそのことを示していよう。
天正大判を入手した伊達政宗が、聚楽第でそれを武将たちに見せて周囲の武将も感心していたところ、政宗が直江に対して、「手にとって見よ」というと、直江はそれを持っていた扇子でぽんとうけて扇子の上でぽんぽんとひっくり返して政宗にぽんと返却した。
政宗は、直江が陪臣(上杉景勝の家老であるため、大名の政宗からすると、同格の大名の家臣に過ぎない)であるため、遠慮しているのかと考えて、「遠慮せずに手にとって見よ」と言ったところ、直江は、「この手は亡き不識庵謙信公(上杉謙信のこと)以来、軍配を預かる手でござるので、そのような穢れたものを手に受けることは出来申さぬ」と答えたというのである。
これを聞いた政宗は鼻白んだというが、この逸話を見ても、金銭は穢れたものという発想が戦国時代にあったようである。
ところで、本稿の主人公である岡左内という武将は、関ヶ原の戦いのころには上杉家に仕えていた。
この岡左内は、金銭を貯めるのが趣味で、休みの日に小判を畳いっぱいに並べて、その上で素裸で昼寝をするのが趣味であった。不識庵謙信以来、質実剛健、武を何よりも重んじることで名が高い上杉家では、左内は嫌われていたようである。左内は家中に金貸しをしていたことも影響しているだろう。
しかし、いざ関ヶ原の戦いの前哨戦であるところの家康の東下に際して、左内は、「金はこういう時に使うものだ」として上杉景勝に軍用金としてその金をぽんと献上した。普段左内を嫌っていた上杉家の家中の士もこれには感嘆せざるを得なかったという。
左内は関ヶ原の戦いが敗れた後、伊達家との戦いにおいて殿を務め、追撃してきた伊達家の兵と戦い、政宗と一騎打ちをして政宗の陣羽織を奪ったこともあり、武勇の士でもあった。
上杉家は関ヶ原の戦いの後、120万石から30万石に減封され、左内は上杉家を去った。上杉家退転に際して、彼は証文を焼き払ってしまったという。
人に嫌われても、金を貯めて、その金を生きるように使ったということで、左内は信念の人といえるだろう。
こんな男はいまの世の中にいるだろうか。