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コラム

織田信長7

2011年10月13日

コラムカテゴリ:法律関連

 明智光秀の軍は、秀吉の中国侵攻軍の援軍であった。光秀は、その1万3000の兵を京都市内に向けて進軍させる。「上様に閲兵する」と虚偽を述べたが、途中、戦闘態勢に入り、「(光秀が)今日から天下さまになり候」と触れ回りさせて、京都市内になだれこんだ。

 信長は、前日珍しく深夜まで談笑し、深更にいたり辞去しようとする織田信忠を引き留めて談笑したという。このような信長は珍しいことであった。信忠が率いる軍は2000程度であった。
 光秀軍は、本能寺を囲み、なだれこんだ。信長公記によれば、信長は、「是非に及ばず」と述べて、弓を自ら放ち、槍を取り、戦ったが、肘を傷つけられた為奥に籠もり、腹を切ったとされる。
 しかし、光秀軍1万3000がひしひしと本能寺を取り囲み討ち果たそうと乱入している場面で、信長公記のような場面が果たしてあったのかは私は疑問に思っている。
 津本陽が「下天は夢か」のあと、本能寺には地下に煙硝蔵があったので、信長は爆死したという新説で「本能寺の変」を書いているが、爆発があったという記録が当時の公家の日記にもないことからみて、そのようなこともなかったであろう。
 私は、信長は光秀が攻めてきたのを見て、もはや逃げられないと判断し、速やかに本能寺に火をかけて腹を切ったのではないかと推量している。焼死体は現在でも身元の判別に苦労するから、信長の死体がどれであるか光秀軍も判別できなかったのではないであろうか。

 織田信忠も、信長の死を聞いて逃亡せず踏みとどまり二条御所に入り光秀軍と戦い死亡している。このとき、信忠が京を脱出していれば、後の秀吉の天下統一もなかったであろう。信忠は信長の嫡子であり、家督を譲られているのであり、彼が生きていれば、織田家の諸将も天下に野望をかけられなかったと思われる。
 信忠は凡庸な嫡子であると思われているが、武田氏を滅亡させた時の総大将は信忠であり、自ら城の塀を乗り越えて一番乗りを果たし、危うく命を落としかけたという勇猛なところもあった武将であり、そこそこの器量ではあったから、彼が生きていればその後の戦国の終焉はどのようになっていたかわからない。
 しかし、彼は逃げられないと考えたのか、わざわざ城に籠もり、光秀軍によって討たれるのである。ここが信忠の限界であったであろう。

 秀吉が、天下を獲った後、勇猛な武将である蒲生氏郷が率いる軍勢と、信長が率いる軍勢と戦ったとして、どちらが勝つかという仮定の話をしたことがある。側近は、蒲生氏郷の勇猛さを知っていたから、氏郷であるというものが多かった。
秀吉は、信長公であるといい、その理由として、5000の軍勢のうち4900までを討ち果たしたとしたら、蒲生氏郷の死体はその4900の中に入っているであろうが、信長公は必ず生きている100人の中におられて、他日巻き返しをはかられるからであるという話をしたという。信長の薫陶がいきとどいていれば、信忠は何としてでも京都を脱出したであろう。

 とまれ、信長は本能寺で死に、彼の天下統一の野望も潰えた。信長がその後天下を統一出来たのか、出来たとしてその後の日本がどうなったかは推測することも一つの愉しみではある。信長が、天下統一をした後は、議会制の政治をしようとしていたという仮説のもとに、そのような世になれば武将達の栄達は意味がなくなるとして反逆に踏み切ったという小説もあるが(おぼろげな知識ながら、池宮彰一郎の「本能寺の変」であったように思う。間違っていたらごめんなさい)、そこまで信長が考えていたということはないであろう。
 彼は人を殺しすぎた為、彼の存命中は天下統一は不可能であったと見ることも出来るし、彼は本能寺で倒れなければ、健康そのものであったから、家康のように長生きをして、やはり統一をしたとみることも出来る。歴史に「たら、れば」は禁物であるが、後の関ヶ原の戦いや、大阪の陣においても「たら、れば」を考えてしまうように、本能寺は信長ファンにとっては、信長がこうしていたら…と考えてしまう事件であることは間違いがなかろう。

 この稿を書くについては、津本陽の「下天は夢か」、司馬遼太郎の「国盗り物語」など、多数の著作を参考にさせていただいていることをお断りさせていただくが、多くは歴史的事実であるし、ある作者唯一の見解ではないことも多いので、全てを引用することは割愛させていただいた。

この記事を書いたプロ

中隆志

被害者救済に取り組む法律のプロ

中隆志(中隆志法律事務所)

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