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コラム

織田信長5

2011年10月11日

コラムカテゴリ:法律関連

 本能寺の変は、織田信長の家臣であり、軍団長である明智光秀が織田信長を本能寺に急襲してこれを討ったという事件である。1582年のこの変により、信長の天下統一の野望は潰えた。

 本能寺の変の後、秀吉が素早く軍を返し、光秀を討ったことから本能寺の変の黒幕は秀吉であったという説がある。また、変後、光秀が朝廷に多額の金銀を寄進していることも含めて、朝廷が黒幕であったという説や、イエズス会が黒幕であるという説もある。
 その一方で、怨恨説も根強い。波多野秀治を丹波に攻めた時に、光秀は老母の命と引替に波多野秀治の命を保証して城を開城させたにもかかわらず、信長はこれを無視して秀治を磔にかけたことに光秀が恨みをもっていたとされる説、家康が安土城に来た時に光秀が家康の饗応係を命ぜられたが、鯛が腐っていたことから信長から打擲をされたことを恨んでいたとか、武田勝頼を滅ぼした後に、光秀が「われら長年の苦労が報われた」と述べたことに対して、信長が、「ワレに何の功があろうか」と言って打擲したという説等である。
 光秀が天下を狙っていたという説も根強い。

 しかし、戦国時代は全ての武将が天下を狙っていたと思われているが、現在の社会でも、「俺はほどほどでいいよ」としている人もいることから分かるように、全ての武将が天下に野望があったという訳でもなかろうし、既にこのとき光秀は当時の意識からすれば、老境に達している。
 秀吉が絵を描いたという説も、秀吉はこの時点で毛利氏と対峙しているのであり、毛利の史料の中に、秀吉を追撃すべきだという説が強硬にあったことからしても、秀吉が毛利氏に追撃されなかったことがむしろ僥倖というべきものであり、黒幕にしては危険すぎる賭である。朝廷にしても、朝廷が京を制圧した武将から寄進を受けるのはむしろ当然であるし、朝廷にそれほどの力が当時あったかといえば、疑問である。イエズス会においては海外勢力であり、日本国内にどれほどの力があったかという疑問がある。
 怨恨説にしても、信用できる史料に掲載されていない逸話もあり、信長は家臣に対して横暴であったことは何も光秀に対してだけではないし、老境にある光秀が個人的怨恨だけで、家臣や家族全てを路頭に迷わせるような暴挙に及ぶとも考えがたい。

 これよりも前に、光秀の家臣である斎藤内蔵助利光は、その妹を長曽我部元親に嫁がせていて、信長と元親は同盟関係にあった。元親は、信長の考えるよりもその勢力が強くなりすぎたため、信長としては、同盟者として面白からぬ気持ちとなっていた。
 一方、信長が頭をなでた程の寵臣であった秀吉は、四国の名族である三好氏から養子を迎えていた(羽柴秀勝)。三好氏は、四国を統一しようとする元親から圧迫され、秀吉を通じて信長に庇護を求めた。
 ここで信長の方針は転換し、元親を捨てて、三好氏を庇護することを決定した。
 本能寺の変の時期は、四国征伐が予定されていた。総大将を補佐する役割は、丹羽長秀とされた。
 織田家の通例では、各地方を攻略する際、その軍事責任者は、それまでその地方の外交を担当していた家臣が行うのが通例であった(これを申次という)。四国でいえば、これまでの申次は光秀であった。
 光秀は、当然自分が事実上の軍事責任者となると考えていたであろう。

 ところが、丹羽長秀がその役割を申しつけられ、光秀は、毛利氏征伐の秀吉の応援部隊という役割であった。
 そのときに、彼の脳裏には、功績があったにもかかわらず、過去の失敗をあげつらわれて、全ての禄を剥奪され、高野山に追放された家老のことが頭に浮かんだに違いない。
 その武将の名を佐久間信盛という。

この記事を書いたプロ

中隆志

被害者救済に取り組む法律のプロ

中隆志(中隆志法律事務所)

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