読書日記「百年の孤独」
戦国時代中期から末期の武将である。播州の小寺氏の家老であり、一時期は小寺官兵衛と名乗っていたが、後に小寺家が織田氏に背き滅びた後、黒田姓に復している。
官兵衛はあふれるばかりの知略の持ち主であり、早くから信長が天下を制すると見て主君を説いて信長に近づいた。その後秀吉の播州平定戦などで功を立てている。
竹中半兵衛とは極めて昵懇であったとされる。互いの秀吉をも超える知謀を認め合っていたのであろう。
秀吉自身、自分の能力に極めて自信を持っていたようであり、信長からもその能力を絶賛されるのであるが、どうも半兵衛と官兵衛には及ばないことを自覚し、そのことに対して嫉妬をしていた節もある。
官兵衛は知謀の人というイメージが強いが、荒木村重が信長に反旗を翻した際、これを説得するために有岡城(伊丹城)に赴いたところ捉えられ、湿気の多い牢屋に閉じこめられたが節を曲げなかったという一面もある。このため、官兵衛は皮膚病になり右足が曲がらなくなり、頭はじゃり禿げになってしまった。
後に天下を取ったあと、秀吉は官兵衛のことを「ちんば」(注 差別的意図はない。歴史的事実を記載するための引用である)と呼んでいたが、これはその時の災難によるものである。
本能寺の変が起こった時密使から信長の死を聞いた秀吉が呆然としているのを見て、「ご運の開かせたまえる時でござる。」と叱咤激励をして秀吉を正気に戻した話は有名であるが、秀吉の心の中をあまりに適確に見通すということで、その後は疎んじられたようである。心の動きをいつも適確に見通されるというのは、確かに気持ちのいいものではあるまい。自分の能力に自信のある秀吉であるから余計にそうであったであろう。
三国志の中でも、曹操よりも知謀が優れていると自負していた楊修という武将がことある事に曹操よりも自らの知謀が優れていることを誇ったため、最後に曹操に殺されている逸話がある。
官兵衛の働きに対して、12万石しか秀吉は与えなかった為、周囲が不審に思い秀吉に進言すると、秀吉は、「ちんばに高禄をやれば天下を取りよるわい」と苦々しく言ったという。
秀吉が自分の死後誰が天下を取るかと戯れに聞いたところ、皆、蒲生氏郷や家康、前田利家の名前を挙げたが、秀吉は笑って「ちんばめが取りよるわ」と言ったという逸話も有名である。それほどに秀吉にその知謀を恐れられていたのである。
関ヶ原の戦いが起こった時、黒田家の主力は皆息子の黒田長政に率いられて東上していた。官兵衛は、これまでに溜め込んだ黄金で農兵を傭兵として雇い、瞬く間に九州の西軍方の城を落としていった。
官兵衛としては、九州を制圧して、その兵力で中央に討って出て、東軍・西軍の覇者と天下分け目の戦いをする意図であったようであり、関ヶ原の戦いは長期化するという見通しであったようである。
しかし、関ヶ原の戦いは9月15日(私の誕生日)のわずか1日で終わり。これを聞いた官兵衛(既にこの頃隠居して如水)は兵を引き、家康にその成果を引き渡したのである。
戦後家康は黒田長政には恩賞を与えたが、如水には与えようとしなかったので側近が進言すると、家康は、「あの老人、誰のために働いたものやら」とぼそりと言ったという。
関ヶ原の戦いは黒田長政が家康の為に裏切り工作などをした為の勝利であり、家康は長政の手を握り「将来決して粗略には扱うまいぞ」と何度も礼を述べた。
長政は、如水にその時のことを得意げに話をしたところ、如水は誉めることなく「ふうん。家康公が握っていた手はお前のどちらの手であったか」というので、長政が「右の手でございました」と答えたところ、如水は「その時お前の左手は何をしていたのだ」と言った為、長政は呆然としたとされる。
家康の為に犬馬の労をとっても、家康が天下を取れば黒田家は一大名に過ぎず、徳川家の顔色を窺ってみなければならない状態になることを如水は見越していたのであろう。
後に如水は、「ただ1人の息子であるが、長政を捨て殺しにするつもりであった」といったという。如水は長政をあまり買っていなかったということでもあろう。
その後は城下町で子どもと遊ぶことを何よりの愉しみとし、隠居生活を貫いた。
その後京都の伏見で死んだ。
享年59歳。
参考文献 海音寺潮五郎 武将列伝
司馬遼太郎 播磨灘物語
他多数