読書日記「百年の孤独」
少し前の読売新聞に、110番通報に本来の通報ではない通報が多数入り時には回線が詰まってしまうこともあるという記事が出ていた。「ゴキブリを駆除して欲しい。本当に困っている」とか、「雨が降ってきたので傘をもってきて欲しい」とかおよそ考えられないような通報というか要望を警察にしているケースが多いようである。
学校に考えられないクレームや要求をしてくるモンスター・ピアレントが問題となっていたが、同じ範疇に入る要求ではなかろうか。
このようなことを書くと、オジサンになってしまったことを露呈するようであるが、日本人の美徳が急速に失われていっているように思われる。自己主張をあまりしないとかいわれてきた日本人であるが、個人主義や新自由主義が美徳のようにいわれるようになって、自己主張が激しくなってきたのであろうか。しかし、ここで指摘されているケースやモンスターピアレントのケースは、「自己主張」ではなく、単に「我が儘」というか「非常識」な主張に過ぎないことは明白であろう。
他人をバカにする若者達という本を以前このブログで紹介したが、そこでは若者は教育の過程で運動会などで順位がつかなくなってりして他者と比較されることが少なくなってきているため、自分の力に過度の根拠のない自信を持ってしまっているがために、自分は何者でもないにもかかわらず、自分にはすごい力があり、他人は全てバカだと思ってしまっているというような分析がされていた。
このような非常識な要求をすることも、「自分は特別だ」という気持ちの表れなのであろうか。あるいは違う社会的背景があるのか。
私は士業の一つ弁護士をしているが、「士」とは武士の「士」であり、武士の定義は何かといわれれば、プレジデント社の「信長」というハードカバーの中で隆慶一郎が「恥アル者」であると定義している説に絶対的な賛同をしたいと考えている。
私は、日本人の気質の一つにこうした「恥アル者」を賛美するというところや、陰徳を美徳とする心情、自己主張はあまりしないが、心底まで征服されない(諸外国から多数の宗教が入ってきたが、多くは日本化されて異質のものに変化されているとされる)粘り強さ、津本陽の「名をこそ惜しめ~硫黄島魂の記録」に象徴されるような国土や家族、国民を守るという土壇場になれば信じられないほどの粘りで敵に立ち向かう勇敢さなどがあると思っているのだが、最近の新自由主義信奉や個を強調する世情はこうした日本人の本質を変容させつつあるのではないだろうか。数千年にわたり変容することがなかった日本人的気質というようなものは生き残ることは出来るのだろうか。
戦国ブームだという記事を少し前に書いた。戦国をブームとするのであれば、やはり士の心意気というようなものも学んで欲しいと思うのは私だけであろうか。