竹中半兵衛

中隆志

中隆志

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の名参謀といわれた武将である。黒田勘兵衛とともに「二兵衛」といわれ、秀吉の中国計略を助けた。
 史料によると、秀吉の配下ではなく、信長から派遣された軍監のような地位であったらしいが、共に行動をしていれば、「人たらし」と言われた秀吉に惹かれて実質的には配下同様であったろう。

 竹中半兵衛は元々斎藤龍興に仕えていたが、その風貌が女子のようであったため、朋輩から日ごろから馬鹿にされていた(戦国時代は、男は荒々しい風貌であればあるほどよいとされた時代である)ところ、ある時斎藤飛騨守から小便をかけられ、かけられた後も変わらず城から退出した。これを見て斎藤飛騨守はさらに半兵衛を馬鹿にしたが、さすがの半兵衛もこれを憤り、「飛騨守が自分を馬鹿にするのは主君の威が行き届いていないためである。いさめるために城を盗るべし」と考えた。
 龍興の居城は名城稲葉山城(後の岐阜城)である。
 半兵衛は一計を案じた。弟が人質として城内にいることを幸いにして、弟の病気見舞い(もちろん仮病)として食事などを入れたお櫃を持参して何回も通った。衛兵は最初のうちは中を見ていたが、何回も続くと中を見ることもなくなった。そうなった後、お櫃に武具を入れて侵入し、わずか手勢17名(だったと思う。ここが今うろ覚え)で斎藤飛騨守を斬り殺し、稲葉山城を奪ってしまった。
 これを聞いた信長は、美濃半国を寄こすので、稲葉山城を明け渡すよう使者を出したが、半兵衛は「主君をいさめるためにしたことである」としてこれに応じず、逐電してしまった。通説では近江に隠棲したとされる。

 斎藤家が滅んだ後、秀吉によって織田家に仕え(太閤記では劉備玄徳が諸葛孔明を三顧の礼で迎えた故事になぞらえて、3度目にしてようやく半兵衛が出仕したとされている)、秀吉の下で浅井長政との戦いや中国経略で活躍した。
 通常才能がある者同士は反発しあうが、黒田勘兵衛と気があったようである。
 荒木村重が信長に反旗を翻した際、黒田勘兵衛が軍使として村重の籠もる有岡城に赴いたところ、村重は勘兵衛を拘留してしまった。
 信長はこれを聞いて、「勘兵衛も謀反をした。村重の味方となった。」として人質であった黒田勘兵衛の息子(後の黒田長政)を殺すように半兵衛に命じたが、半兵衛は勘兵衛がそのようなことをするはずがないとしてよく似た子どもの首を信長に差し出しておいた(そのこと自体どうかという向きはあるが、時代は戦国である)ところ、後に勘兵衛が半死半生で有岡城から助け出されたのを見た信長が、「勘兵衛に合わせる顔がない」と恥じ入った時に、半兵衛が長政を処刑していなかったことを知って感じ入ったという逸話もある。

 他にも半兵衛の逸話は多いが、子の竹中重門の軍学を聞かせていたところ、退席したので「なぜ退席したか」と聞くと重門は「小用だ」という。これを聞いて半兵衛は烈火のごとく怒り、「小用がしたくなればなぜその場でたれ流さないのか。竹中家の子が軍学を聞くためにその場で小便を漏らしたという話は竹中家にとって誉れであろう。」と言って怒ったと名将言行録にある。

 秀吉の中国経略中の1579年に陣中で死んでいる。享年は36。肺が悪かったということである。

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