読書日記「百年の孤独」
最近、ロースクールの学生が合格者見直しという話が出たことに対して、「国家的詐欺」だということを述べている記事などをよく見かける。
しかし、「合格しやすくなったから受験することに決めた」とか「70%合格するというのでロースクールに行った」というのは実務家になろうと思うのであればたいへん誤った考えであると思っている。
そもそも、昔から司法試験に合格するかしないかというのは試験であることから合格が保証されたものではなかった。
ロースクールが始まる前の試験においても、合格せずに他の道を歩まざるを得なかった人たちはたくさんいる。
私が合格した当時は2万数千人が受験して、600人しか受からないという時代であった。もちろん記念受験の人もいたであろうが、合格率は2パーセント台でずっと推移してきた。
それでも受験する人はいたし、人生をかけている人は多くいた。
それはなぜかといえば、人それぞれ理由は異なれど、「いつ合格出来るか全く分からないけれど、法律家になりたい。なってこういうことがしたい」という思いやビジョンがあったからだと思う(私にあったかはナイショ)。
法律家の仕事は実際にやってみると、楽な仕事ではない。裁判官や検察官は司法修習の時に見ただけなので推察ですが、それなりの苦労があると思う。自殺する人が稀にいるのもわからないではない仕事である。
弁護士も同様である。依頼者のために誠実に仕事をしても、依頼者から逆恨みされたり、理解して貰えなかったり、報酬を踏み倒されたり、相手方から逆恨みされたりして、突然相手方が事務所に殴り込んでくることもある。(誤解で)電話で怒られることもしばしばである。
いいことよりはつらいことの方が圧倒的に多い。10事件があったら、9は嫌なことで、1くらいいいことがあればラッキーであると司法修習時代にある検察官は言っていた。
こうしたつらさがあっても皆仕事をしているのは、職業的倫理観がその根本にあるからである。こうした倫理観は、「合格しやすくなったし、受けてみようか」というような気持ちでは醸成されないと思う。
ロースクール制度は間違った制度であると私は思っている。しかし、制度がある以上、法律家を目指したい人は通常はここに入らざるを得ない。そのことをどうこういってみても仕方がない。
今後改革がどうなるかなど誰も分からないし、司法試験を目指したからといって、どのような制度になったところで、具体的に個々に目指している人が合格するかなど分からないことである。
我々弁護士からすれば、就職難は当たり前である。合格しやすくなったのであるから、合格後苦労することはある意味当然のことだと思うし、それは受験する時から予想されていたことであろう。入口が狭いか、出口が狭いかの違いであるだけである。
国はそもそも7割合格させるなどと約束した事実はないはずである。
元々ロースクールの定員は3000人を0.7で割った程度で国は考えていたので、だいたいそれくらいの目安でという話をしただけである。ところが、各地の大学がわれもわれもとロースクールを開講したため、定員が5000人を越えてしまった結果、70%も合格しないこととなったのである。
また、当初の国の構想では、卒業生の70%程度が受かるような教育という話をしていたので、残り30%が再受験することは当然に織り込み済みで、2年目以降合格率が下がっていくことは、普通に考えれば誰でも分かることである。これを詐欺というようなロースクール生では、とうてい過酷な法律家の世界では生きていけないであろう。
様々な罠や落とし穴があり、自分の身は自分で守らなければならないのが法律家の世界である。依頼者に騙されたというのでは、弁護士として話にもならない。
法律家を目指したいのであれば、どのような制度であれ、合格後がどうであれ法律家になってこういうことがしたいという人でなければ、これからは成功しないと思うのである。
多くの修習生が、会社員的に大手の法律事務所に就職していくのを見ていると、何のために法律家になったのか疑問に思うこともある。
将来が不安だというのは、我々が受験している時代でも同じであった。合格するかしないか分からないし、今よりも合格することが難しかったのですから。その意味では受験生の不安とは、今も昔も変わらないと思う。
逆にいえば、こうした不安を越えて「法律家になる」という人でなければ、本来司法試験に受験して合格したところで、実務家になって良い仕事は出来ないと思うのである。
何のために法律家になりたいかという確固たる信念があるかどうか、最後はそこで決まるような気がする。