読書日記「百年の孤独」
最近、若手の弁護士さんの書面を見ていると、いたずらに品がなかったり、我田引水的であったり、判例の引用が適当であったり、抽象的な主張に終始していて何が書きたいのか分からなかったり、反論が自分のところの事実主張を前提にしてこちらの法律論主張を批判することばかりに終始したり(前提事実が異なれば、法律論は異なるのはあたりまえ)、頭をひねることが多いように思う。
事務所であまりボスとか大きい事務所だと直属の上司に書面を見てもらえていないのかなと思う。大きい事務所を維持しようとすればそれなりに経費もかかるので、多くの事件を受けたり、大きい事件を受けた結果、弁護士が多忙になりすぎると、小さい(といっても訴額という意味であるが)、個々の仕事に目がいかないようになるようなきらいがある。
書面の作成というのは弁護士の仕事の中で時間がそれなりにかかるものであるし、それなりに気を遣うものであるが、逆に、「こんな不利なこと書いていいんかいな」という書面もある。ある意味やっつけ仕事なのである。
弁護士の役割と倫理という本を読むと、名誉毀損的弁論と懲戒というような話が詳しく書かれている。
品のない書面は裁判官も読んでいていい気はしないだろうし、当然こちらもいい気はしない。また、和解をするときに、当事者が、「ここまで書かれたら和解なんてしない」ということにもなりかねない。たとえば、単純に否定しておけばよいところを、そのような主張をすること自体が相手方の性格の異常さを物語っているなんて書いたりしたら、当然相手の当時者は怒ってしまい、話し合いになった時に、「相手の弁護士は許せないから、謝罪させて欲しい」などと余計な説得作業が必要になったりする。時には依頼者との関係でやむを得ず書く時もあるが、出来ればあまり個人攻撃のようなことは書きたくはない。
判例も原典にあたっていないとしか考えられない引用もたまに見かける(時には違うことが分かっていてとぼけて引用することもないではないが)。
あとは、事実が違うとだけ書くのはよいが、自分のところの事実からすれば、相手の法律的な主張はおかしいと書くのはおかしいのである。なぜなら、こちらはこちらの事実を前提にした法律論を組み立てているからである。こちらの主張する事実関係を元にしてもその法律論がおかしいというのであれば話は分かるのだが、そのあたりがごっちゃになっている。
また、別の機会に書こうと思うが、個別にこちらが主張する論点を否定していく間に、個々の論点の主張が矛盾を来していたり、あるところで主張したものがほかの箇所では不利であったりする弁護士もいる。場当たり的反論だとこのような結果となるのである。
トレーニングされた弁護士は一つの書面を作成するのに非常に考えているものである。それが習慣になっているといってもいい。これは、書面を作成しながら考えるだけでなく、常日頃から事件のことを考えているからである(その意味でワーカホリックである)。書面を書いている時だけその主張をどうしようかとか、書きながら考えているようではいけないのである。