読書日記「百年の孤独」
歴史小説で取り上げられる人物は共通していると前に書いたが、この人物もそういう人物である。
司馬遼太郎の「軍師2人」に収録されている渡辺勘兵衛を描いた「侍大将の胸毛」という短編によると、渡辺の姓で一字の名前を持つものは、鬼退治で有名な「渡辺ノ綱」の末であり、すべからく武勇に秀でているとされている。
槍の勘兵衛として名を馳せた人物で、信長から激賞されたこともある。山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いでも功を上げている。
生涯に主君を何回も変えている人物でもある。主君が死亡したり、家が取りつぶしになったりしたためもあるが、どの主君と一悶着起こしているようである。しかし、なぜか武将というよりは文官の増田長盛には素直に仕えていたようである。このあたり、増田長盛は独特の威風を持っていたのかもわからない。
勘兵衛は関ヶ原の戦いには従軍できなかった。増田長盛は奈良にいた自らの手勢を参戦させることなく温存していたためであり、勘兵衛は城の留守居であった。この長盛の行動は謎である。
戦後、増田長盛は徳川家康により所領を没収され高野山に入れられたが、そのような情勢下になっても、「主君より預けられた城である」として、東軍が取り巻いても一顧だにせず城を明け渡そうとしなかった。ようやく増田長盛自らの開城命令書が届いて城を開けわたしたが、その際の進退のすばらしさに東軍からも賞賛の声があがり、仕官の誘いが跡を絶たなかったようである。
その後同郷の藤堂高虎に2万石で仕えるが、大阪冬の陣で戦い方で主君の藤堂高虎と意見が食い違ったところ(絶好の攻める場面であったが高虎は家康・秀忠に使いをよこしてその指図を仰ごうとしたのである)、勘兵衛は自らの手勢で攻めかかってしまったのである。
このとき、池波正太郎の勘兵衛を描いた「戦国幻想曲」という作品では、ロマンチックな場面が出てくる。さすがに池波正太郎である。
このときのことを恨みに思われた結果、勘兵衛は藤堂家も退転することとなる。
藤堂家ではよほどこの退転を恨みに思ったのか、「奉公構」を出した。これが出ていれば他の家が仕官を求めることをとめてしまうのである。その後何回か藤堂家と和解のチャンスはあったものの、ことごとく失敗した。意地があったのであろう。
その後は彼の才を惜しむ大名から捨て扶持を貰い、京都で睡庵と称して没した。