読書日記「百年の孤独」
弁護士は公益活動を義務づけられているが、会員が公平にその義務を負担しているわけではない。他の人よりも多く公益活動をしている人材は、不公平感や不満を抱いていることが多い。
しかし、弁護士に限らず職場の中や社会の中で、あとりあらゆる人が義務を公平に負担しているかというと、そのようなことはあり得ない。能力も性格も違うので、仕事をつい引き受けたり、お金にならないことをしんどい思いをしてやってしまう人と、仕事をていよく断ったり逃げて、お金にならないことは一切しない人がいる。えてして、何かことがあると文句をつけるのは後者であったりして、それが余計に不公平感を駆り立てることになる。
しかし、そもそも全ての人が公平に義務を履行することは不可能であるから、そうした負担をしていることをポジティブに捉えてみてもよいのではないかと思うのである。
やらない人は能力がないから出来ないのであって、自分はやる能力にあふれているからこそ、これだけの仕事をしたりしているし出来るのだと考えてみるのである。
うまく逃げている人や何もしていない人というのは、把握されていないつもりでも他人はよくみているものである。そうした人物には、困った時に誰も手を貸さないものでもある。
逆に、人のやらない仕事を引き受けてしんどい思いをしている人というのは、表だって言わなくとも、誰かがみてくれているように思うのである。
それが数年後などに花開くことがあるように思う。見ている人は見ているのである。
もちろんそれが元で体を壊したりしたり精神に変調を来すということであれば程度問題であるが、私はうまく逃げている人よりは、つらい仕事をして損をしている人の方が好きだし、そのような人は自分でわからないうちに評価されているものである。
もちろん人間であるから愚痴をこぼしたい時もあるであろうから、そういう時は愚痴をいえばいいのである。そうした人物は評価されているので、必ず愚痴を聞いてくれる人がいるものである。人に愚痴もいわないのは体に悪い。
取り繕ってうまく表面だけで対処したりして逃げている人のメッキは程なくはがれるものであるから、そうした人物はそのうち淘汰される(と信じたいし信じている)。
人間同士の関係も同じようなところがあり、他人に100与えたからといって、100返ってくると考えていても、そのようなことはあり得ない。時には相手が逆にそれ以上返してくれることもあるが、返ってこないからといって怒っていても何も生まれないであろう。
ただ、ある場面では負担をしている人が別の場面では違う人に負担をかけていることもあるので、これも程度問題というところはあるであろう。私だってそうである。
まあ、こうはいっても人間だから、私だって腹が立つことや他人の悪口をいうことなど多々あるが、出来るだけ前述のように考えるようにしているということであるので「お前かて愚痴いうてるやないか」などつっこまず、「そのようになるべく考えるようにしている、行動しようとしている」という程度でお読み願いたい。