読書日記「百年の孤独」
私が主任でした事件で、逆転敗訴が一件だけある。逆に逆転勝訴したケースや、一部逆転勝訴は何件かあるが、完全にこちらが逆転敗訴したケースは一件だけである。
あれから経験を積んで思うにも、やはり高裁の判決は誤っているということである。一審の判決の事実認定は詳細であり、また、こちらの本人尋問を直接聞いていた。証拠も揃っていた。
しかし、高裁判決は、今から考えても訳の分からない理由で逆転敗訴にしたのである。しかも、逆転の兆候すらなかった。
敗訴判決を受けて、依頼者に連絡を取るときはつらい。しかも、今回は逆転敗訴なのである。事実認定に関しては高裁が事実上最終判断であるから、これで敗訴が確定したに等しい。
しかし、依頼者は、私に、「真実は、私の心と、先生と、一審の裁判官がわかってくれています。高裁の裁判官は、私の話を直接聞いた訳でもないし、真実は私が一番知っています。でも、高裁の裁判官は、私に会ったことすらもない人ですよね。」と言ってくれた。
ボスのサジェスチョンもあり、上告したが、すぐに上告棄却で返ってきた。これが三審制の限界である。
しかし、その依頼者は、私が力を尽くしてくれたとして、その後もお歳暮を贈り続けてくれた。弁護士として、敗訴はしたが、これほど嬉しかったことはない。
敗訴した当事者がいかに説得され納得出来る判決を書くことが出来るかに、司法の信頼はかかっている。そうした判決が書ける裁判官が日本にどれほどいるだろう。おかしい裁判官が書いた判決は、時としてその人の一生を左右するのである。
理想としては、ばりばり一線で働いている弁護士が任官することでしか有能な裁判官は確保できないであろうが、逆に有能でばりばりやっている弁護士は、事務所を捨ててまで任官しづらいというジレンマがある。
この逆転敗訴も納得出来る理由付けがあれば、私の心には教訓となって残ったであろうが、中身が支離滅裂であったため、私にとっては、恨みとしか残っていないのである。この事件のみならず、真実が歪められて敗訴した本人にとっては、裁判所に対して恨み骨髄となるであろう。
しかし、裁判官の中で、自らの職責がそれだけのものであると考えている人たちがどれだけいるかは、極めて疑問なのである。