読書日記「百年の孤独」
勧善懲悪だけで割り切れないのが世の中である。善と悪は紙一重であったりすることもある。未来永劫変わらない罪というのもあるであろうが、罪によっては時代とともにその判断基準が変わるものもある。人によっても善と悪の境界は異なるであろう。
手塚治虫の漫画では、善と悪が書かれていることがあるが、最後に善と悪が入れ替わることもある。時の流れでそうなるのである。そして、善も悪も最後には死ぬ。普通だと善が生き残り「メデタシメデタシ」となるのであるが、手塚作品ではそうはいかない。皆一様に(多少の例外を除いて)死ぬ。海のトリトンという漫画でも、トリトンは世界の平和のために敵とともに死ぬ(最後は感動して泣く)。その他の作品でも、主人公が最後は非業の死を遂げることが多い。
火の鳥という作品は手塚氏のライフワークであった作品であるが、そのスケールの大きさやメッセージは哲学である。ここでも生と死とともに善悪が描かれる。必ず善が報われるわけでもない。火の鳥は、一家にワンセットあってよい名作である。
さて、私であるが、私は善悪を語れるほど自分に自惚れてはいないので、仕事に関して少し善悪について書いてみる。
検察と対立当事者になることもあれば、被害者側として検察官に「重い処罰を」と求めることがあるが、検察官はこちらからすれば微罪のようなものをやっきになって起訴する輩もいれば、どう考えても被害者がかわいそうな事件でも淡々と事件を処理する輩もいるように見える。
検察官一体の原則からすれば、重い事件は重く、微罪は微罪らしく処理をして欲しいものだが、担当検事によって割合ばらばらである印象である。ここでも善と悪のバランスというか境界が難しいようである。