読書日記「百年の孤独」
心神喪失とか心身耗弱状態であったということで、刑事責任が減刑されたり、無罪となることがある。被害者からすれば、被告人側の事情によって刑が軽減されたり無罪となることは全くもって納得いかないということになる。
私は過去、犯罪被害者支援関係の立法が出来る前に、2名を殺害した被疑者が心神喪失状態であったため起訴できないとされた事例で、検察審査会に不服を申し立てて「起訴相当」「不起訴不当」を勝ち取り、その結果再捜査がされ、一転して責任能力を一部認める鑑定がなされて起訴されたという事案を被害者側で担当したことがある。
これが私の犯罪被害者支援への道筋をつけた事件であるともいえるのであるが(新聞でも何回も取り上げられて、この事件の関係でBSにも出演した)、この事件を通じて「刑事事件の責任能力とは何か」と考えるようになった。いつも考えている訳ではないが…。
一般的にいって、当時(今から約10年前)は、鑑定をする医師の側も、検察官の側も、裁判官の側も、「責任能力」の内実についてはあまり研究した形跡もなければ、これといった文献もなかったのである。判例も相当調べたが、「じゃあ責任能力って何?」というところまで突き詰めた判例や文献はなかった。これは今もそうなのではないかと思っている。
被告人の精神状態からして、自らの行動を制御することが出来なかったことをもって責任能力がないと断じた判決もあったが、犯罪は法律で禁止されているのであって、犯罪者は行為当時みな自分の行動が制御できない為に犯行に及んでいるのであるから、この理屈を突き詰めれば犯罪者は皆責任能力がなことになる。
私が担当した事件の検事も「行動を制御することが出来なかったので」不起訴にしたと言っていた。
私はそのとき検察審査会に出した意見書で、一般人が当該被告人の状態におかれた場合に、行動を制御することが不可能であったかどうかで判断すべきであるとした。
被告人の立場で考えてしまうと、その被告人は制御出来ないが結果犯行に及んだのであるから、全て無罪となってしまうからである。もちろんここで「一般人」が何かという定義はあるであろうが、「常識」と置き換えてもよいであろう。
私が担当した事件は、どう考えても被告人の精神構造というかその状態に一般人を置いたとしても、2名を殺害することが制御不能というようなものではとうていなかった。むしろ一般人からすれば「殺人」というような結論に至らないはずであった。そのため、その点を中心に論述した結果、検察審査会の一般の方々の理解を得られたのである。
精神科医が行う鑑定も、「病気かどうか」に論点が置かれて、こうした法的判断は欠落しているように思われる鑑定書もある。ただ、医師にそもそも「責任能力ありなし」の鑑定を求めること自体がそもそも間違いであり、法的判断たる「責任能力の有無」については、裁判官の判断事項であり、医師は被告人がどうした状態であったかを鑑定すれば足りるのではなかろうかとも考えてみたりする。医師が鑑定書を書くからには、刑事における責任能力の考え方を確立する必要があるであろう。
ただし、精神病であれば、一般の人がそうした病気に罹患すれば犯行をしてしまうことはあり得ないではないとも言いうるが、病気でなければ単なる特異性格であり、一般人が被告人の置かれた立場に置かれたとしても犯行をすることはないというような分類は出来ようか。ただ、被告人の考え方が「理解しがたい」からといってすぐに責任能力がないとか心神耗弱であったと断じるのも早計であろう。飛躍した考え方をすること自体が被告人の特異性格であるともいいうるからである。
被害者からしてもっとも理解しがたい刑法の理屈が責任能力である。