読書日記「百年の孤独」
裁判修習をしている時間の方が長いせいか、研修所でも要件事実とか事実認定の講義をしている時間が長いせいか、修習生はだいたい裁判所寄りで、裁判官的発想をする者が多いように思われる。訴訟の行く末を考えるために裁判官的発想で事件を見ることは必要ではあるが、常に裁判官的発想になってしまっては弁護士は終わりである。弁護士は弁護士である。
弁護士になる予定の修習生であっても「ああ、裁判官よりやなあ」と思われる発言があったりすると暗たんたる気持ちになる。
無罪を争っている事件で起案をしてもらうと、「先生、この人は本当に無罪なんでしょうか」という質問が出たりするし、「あの人はウソをついていると思うのです」とか、裁判修習に行っている修習生からは、「ありもしないウソが出て」という言葉が聞かれる。そういう修習生には怒る。
刑事事件では、弁護人は被告人のために活動をすれば足りるのであって、真実探求の義務はない。被告人の言っていることが、一見信じられないようであって、裁判の中では通らないかもしれないが、それが真実であるということはあり得ないではない。誤判は裁判には必ず潜んでいるのである。
弁護士になる予定の修習生はもちろん、その他になる予定の修習生にも、被告人の言い分を一度十分に吟味する癖をつけて欲しいものである。頭から「ウソ」と決めてかからず、そういった可能性が本当にないのかどうかを考えてみるべきである。
有罪を推定させる事実があれば、弁護人としては、それを合理的弁論で潰せば足りるのであり、被告人を疑ってかかる必要はないのである。一審が有罪の事件が控訴審で覆ることがあるが、あれも、一審の裁判官は、「この被告人はウソを言っている」として有罪とし、刑事部にいる修習生も「ウソつき被告人」と陰口をたたいていた事件のはずである。
事件に対して、弁護士の方が予断を持ったり、被告人はウソをいうものだというような姿勢でいるとすれば、根本から考えを改めないといけないだろう。修習時代に意識的に考え方を持っておかないと、中々改められないと思われる。