読書日記「百年の孤独」
弁護士をはじめとして法律実務家の世界では高学歴は当たり前であり、出身大学がどうであるとかいうのはほとんど問題にされない。今後、多数の合格者が出てくれば就職の際には出身大学である程度の選抜がされるという噂もあるが。
周りを見ていても、「自分は賢い」と自信を持っている実務家も多く、確かに頭はいいのだろうなと思う。共通一次の模試で京大判定最高Dであり、共通一次で勘でマーカーを塗ったところが当たりまくって二次試験を受けることが出来た私からすれば華々しい私立高校を出ている人も多い。
ただし、頭がいい=法律実務家としても賢いとはならないのがこの業界である。実務家である以上、実務に役立つ賢さでないといけない。単に頭がいいことと、実務に役立つ賢さは全く別ものである。
たとえば、反対尋問をする際にも、頭がいい人は次々に頭が展開するので、証人に次々とたたみかけて聞いていくことがあるが、その時に「先々まで考えて」尋問しているか否かで評価が変わってくることになる。単に頭の回転が速くて思いつきを聞いていくのであれば、ただの賢い人である。能力のある法律実務家は、先の展開を読み、不利な答えが出そうなところは敢えて聞かないとか、伏線に伏線を張って罠にかけるとか一つの質問に全て意図があるのである。なんでこれを聞くかということに常に答えが用意されている。頭が単にいい人の反対尋問は、聞かなくてもよいことまで聞いてしまい、かえって墓穴を掘ることもある。ただ、単に頭のいい人は、「俺の頭の良さがわかったか」となっているので、自分が役に立たない実務家であることには気がつかない。
また、頭のいい人は頭がいいので、ともすれば証人と議論してしまうこともある。頭がいい人からすれば自明のことを証人が理解しないとそれを押し付けようとし、議論や意見の押しつけとなっていることもある。これは尋問ではなくなっている。尋問は事実を聞くものだからである。しかし、頭のいい人は、「証人をやりこめてやった。俺って頭がいい」と思うのである。
これに対し、能力のある法律実務家は議論することなく、証人が理解していなければ同等の立場から具体例などをあげて質問をして詰めていく。あくまで行っているのは「質問」である。
さらに、頭がいい人は、「これこれこういうことからするとこういうことになりませんか」と自分の思っていることを頭がいいのでずばっと証人に聞いてしまう。そこで証人がクビをかしげると、「そうでしょう。そうなるんです」なんて言ったりする。
能力のある実務家は、証人尋問では事実だけを聞くので、そうしたことは準備書面で書いて、尋問の時には自分の手の内を見せない。
等々。
ただの賢い人で終わるか、能力のある法律実務家として華開くかは、こうした点を意識的にしているかどうかでも変わってくる。いかに「考えて」いるかであり、単なる表層上の賢さではなく、「考える力」である。
頭が良すぎる人は回転が速いので、場面場面で違うことをいったりもいる。本人の中では頭の良さに従って行動しているだけなので矛盾はないが、周りからすれば頭はいいけれど矛盾したことをいう信用できない人となる。
私が修習をした時に、民事裁判教官も、「法律家で切れすぎる人は危険である。」と言っていた。地道に考え、愚直に事件をし、地を這うような地道な事件をこつこつやれる能力がもっとも重要だということである。私のボスが、単に賢い人を「かしこがりバカ」と呼んでいたということは決してない。