読書日記「百年の孤独」
事件はどの事件も個別であり、それぞれの背景事情などがあるから、同じ事件は一つとしてない。ところが、事件の件数が多いと、だんだん要領で事件処理をしがちである。
私が修習生の頃、検察修習で公判部のM検察官の係に配属された。
M検察官は、証拠関係カードに、合間の時間を見て、鉛筆で証拠の要旨をいつも書き込まれていた。検察官が提出した証拠が裁判所に証拠採用された後、被告人に、「その証拠がどのような証拠か」という「要旨」を告知することになっているのだが、M検察官は、どの事件でも鉛筆で書き込まれていた。
若手の検察官は、皆、時間に追われ、証拠の表題を読み上げる程度でこなしていた姿を見ていた(最近でも公判では、その場で証拠を見て考えていることがありありと分かる若い検察官の姿をよく見かけるが)ので、M検察官に、「どうして全ての事件についてそうしているのですか」と聞いた。断っておくが、M検察官は極めて優秀な検察官で、裁判官からも高い評価を受けていた検察官であり、現場で要旨の告知を考えて出来ないような人ではないのである。
その優秀なM検察官が、丁寧に一つ一つの証拠に準備をしている姿を見て私は聞いたのである。
そうすると、M検察官は、「事件に同じものはないから。検察官にとっては何百件あるうちの一件でも、被害者や、被告人にとってはたった一つの事件であるから、一件として手は抜けないやろ。要旨の告知一つからよく考えてあげないとな。」といわれた。
私はその言葉に感動し、「そうあるべきだし、自分もそうありたい」と思ったのだった。
その後、私の周囲にいる優秀な法律家は、事件に軽重はつけないし、金額によって態度を変えたりは絶対にしないことから、これが優秀な法律家の基本的能力の一つだと考えている。
M検察官に連れて行ってもらった焼き鳥の味は今でも覚えている。