読書日記「百年の孤独」
私が修習生の頃、刑事裁判修習で、刑事補償の起案を任されたことがあった。
既に無罪が出ている事件で、無罪が出た事件について、勾留された日数について、1日あたりいくらということで補償をしなければならないとされているのである。
起案をするためには、まず事件の中身を読みなさいと言われて、無罪の記録を読み進んだが、どうも検察官の立証活動がまずくて無罪とはなったが、「本当はこいつ故意があってやってるんじゃないか?」という疑いが非常に強くなった。
そこで、私は担当裁判官に、「こいつ故意あったんじゃないでしょうか。故意があったかも知れない男に補償しなければならないんでしょうか。」と素朴な疑問を述べたところ、間髪入れず、「中さん、無罪と無実は違うから。刑事補償っていうのは無罪の人に補償しろと書いてあるのであって、無実の人に補償せよとは書いてないでしょ。本当はやっていたかも知れないけれど、証拠上無罪であれば、補償はすべきなんだよ」といわれた。
私は当時検察修習が終わったばかりで、頭の中が検察官よりになっていたことも原因であったが、刑事事件の大原則をいわれて、目からうろこが落ちたのであった。
この裁判官は、その後も無罪をたくさん書いておられる。記録や証拠を丹念に見る刑事裁判官は、無罪を書くことが多くなり、そうでない裁判官は、一生無罪を書かないとはよくいわれていたことである。
しかし、現実の刑事裁判官が全員このような大原則に従って判決を書いているかといえば、答えは「否」である。無実であっても有罪になることも多くあると思う。映画で、「それでも僕はやってない」という映画が公開されるようだが、ああいったことは、この日本という国では日常的に起こりうることなのである。
我々弁護人から見てどう考えても故意がないだろうという事件で故意を認定されたこともあったし、証拠関係からして被害者の矛盾だらけの供述を、「たいした矛盾ではない(まるで小泉元首相のようだが)」と斬って捨てて有罪とされたこともある。
日本の刑事裁判が正常化する日は来るのかと暗澹たる気持ちになる。