読書日記「百年の孤独」
よく、裁判で「真実が認められた」と言っているが、実際に存在した生の事実は過去の事実であって、今タイムマシンに乗って確認することは出来ないから、裁判における事実認定というものは、「たぶんこういったことが過去のこの時点であったんだろう」「合った可能性が高い」という程度の事実となってしまう。その意味で、裁判における事実というものは、歴史的事実と同様なのである。
織田信長が本能寺で死亡した(通説)とされているのは、そのような歴史的資料があるからであり、歴史的資料がない時代であれば、幾通りにもこうした仮説が出てくる可能性がある。
裁判においても、古い事件であると資料が散逸していたり、当事者が死亡していたりして、過去にあったとされる事実の構築が非常に困難となる。裁判は自分にとって有利な事実は、自分の方で証拠で証明しない限り負けてしまう。
従って、裁判というものは、必ず誤判の可能性がある非常に脆弱なシロモノだということを理解しておかないといけない。証拠の見方によっては、裁判官によっても判断が変わる可能性があるし、新証拠が出てきて結論が覆る場合もある。逆に、証拠がないことをいいことに、請求してきている当事者がいるかもしれない。
そのようなあやふやな中で、いかに裁判官を説得し、過去に存在した事実を構築出来るかが、裁判における弁護士の腕の見せ所となる。
当事者に、証拠上不利な点も説明した上で、証拠がないか探す姿勢がある弁護士かどうかというのもいい弁護士かどうかの一つのメルクマールである。ひどいケースでは、証拠を本人に用意しろというだけで、弁護士から「こんな証拠はないのか」とかの問いかけもないケースもあるが、事件をするのが面倒臭いなら、弁護士をやめたらいいのである