読書日記「百年の孤独」
刑事事件と弁護士。これは非常に一般の人には分かってもらいにくいテーマの一つです。
純粋な疑問は、「どうして悪いことをした人の味方につくのか?」という形で出てくると思います。特に極悪事件になるとこうした疑問が出てくると思います。あの弁護士は許せないとして、嫌がらせをされることすらあります。
答えはいろいろありうるのでしょうが、もっともわかりやすいのは、中世の魔女裁判です。今の常識からすれば、魔女はいないのですが、中世のヨーロッパにおいては、「魔女である」という判決が下されれば、火あぶりなどの刑に処せられていました。これは明らかに誤りであると今となってはいえるのですが、当時は、民衆が魔女であると糾弾すれば、魔女と言われた側には、弁解の機会も与えられなかったのです。これは、民主主義が必ずしも正しい判断をしないことの好例でもあります。ヒトラーも民衆が圧倒的支持をした指導者だったですから…。今の日本はどうでしょうかね。
日本の刑事事件についても、過去に暴行・拷問や脅迫的な取調が行われ(実は今でも警察や検察官は否定するのですが、よく暴行や脅迫はあるのですが…)、被告人の弁解も聞かれることなく、自白したという書類が作られていきました。犯人であると決めつけられ、あるいは故意はなかったのに、故意だったんだろうと指摘されて、弁解をしてもいっこうに聞いてもらえない…。しかも、身体は拘束され、家族とも会えない状況です。このような状況下に置かれていた、あるいは置かれる危険性のある被疑者・被告人にとって誰も味方がいなければ、一切弁解もされることなく判決が下され、中世の魔女裁判と全く同じ結果となってしまうでしょう。
その唯一の味方こそが弁護人なのです。ただ、検察官が2人いるのではないかと思うほど刑事裁判官が被告人の主張を聞く姿勢すら持たないこともよくありますが…。
全世界が被告人を信じていなくとも、黒であるという証拠があるようであっても、被告人が無罪を主張していたら、これを信じて、被告人のために最大限努力をするという活動が弁護人に求められているといえます。正直にいうと反吐が出るような嫌な被告人に対しても、何とかいいところを見つけないといけなかったりしますし、これをしないと弁護人がその職責を果たしていないとして、懲戒になる可能性すらあります。
時折、死刑事件を弁護することはけしからんとか、オウム事件を担当する弁護士は懲戒にすべきだなどというばかげた議論が弁護士の中でも行われますが、弁護の方法について批判はあり得ても、弁護することそのものや、被告人の弁解を元に議論を展開したことを批判するようでは、こうした人たちには、弁護士、広く言えば法律家としての人権感覚はないといえるでしょう。
犯罪被害者と凶悪事件とは真っ向から対立することになりますが、弁護士としてどちらかしか出来ないという選択をするかどうかも、なかなか難しい問題で、私のコラムで簡単に書ける問題ではなくて、論文くらいになってしまう問題です。