自身のこころを知る作業の意義とは
「信じるということ」は、むずかしいことだとお感じになりますか?
私が何を指して問うているのかを明らかにする必要があることに気が付きました。
ここでは、私が私の相談室(ひなぎく心理ルーム)での営みを信じれるかということに絞ってみたいと思います。
私は「信じることができる」と答えることができそうです。
なぜなら、私は私のこころに嘘がない営みを良しとしており、嘘のない交流を通してなされる、
当ルームの精神分析的心理療法は必ずその方のたどり着くべきところにたどり着くからです。
そこは楽園なんです、なんてことではもちろんありません。
地獄でも天国でもありません。
それはその方にとってなじみのある景色であり、そこにあった情緒が今ようやく日の目を見る。
それを手にしたとき、その方の人生がその方のこころの内に美しく収まり、今の時の流れ、
これからの時のながれが、これまでの時の流れと趣を異にしていく。
人生の彩を手にしてからの景色は、それまでとは違って見える。ありのままに見える。
赤が赤として、あおがあおとして、白が白として。
それがどれほど楽なことか。
私は、私の精神分析的心理療法に裏切られたことがありません。
なぜそう言えるのか、それは私が正解を持ってはいないからです。
もっといえば人にとって何が正解なのか(もちろん意図的に人に迷惑をかけることは論外)本当には分からないと私は思うので、なので、裏切られないと思えるのかもしれません。
意識的に望んでいたことが叶わないことは、意識的には悲劇かもしれません。
ただ、叶わなかったことでもたらされる何かもある。そのような視点に開かれているなら、
どのような人生も信じるに値するものになるように私には思えます。
憎しみに満ち溢れたこころがあるならば、
そのこころを存分に認識してあげることがあっていい。
どのような気持ちでもありのままの気持ちを吐露して、
聞いてもらう受け止めてもらう体験があっていい。
そのような気持ちを抱えている自分を理解してあげることができたなら、
それほど豊かなことはないとおもうのです。
12月はじめ、とても天気の良い日の高野川沿いの桜の木の下の秋です。
どこにでもある色とりどりの草花ですが、たいそう美しいです。



