こころを守るということ
今回は、私の主催するひなぎく心理ルームの作業につき表題の内容で記載します。
当ルームは、精神分析の理論を用いた週1回~3回の頻度での精神分析的心理療法と、
不登校児童・生徒の親御さんに対して精神分析の理論を活用した見立てをもとに、
子どもさんとのかかわり方への具体的な提言を行っています。
ここでは、ご本人さんを対象とした精神分析的心理療法での、
当ルームにおける目的といえる、来室されるかたのこころを知っていく作業について、
その意義の一端をお伝えいたします。
来室を考えておられる方には、来室を考えるにいたる動機が存在することと思います。
その動機は、苦しさ・生きづらさ・困り・混乱・不安…というこころのことと思いますが、
実際に面接を求めるのがどのようなタイミングとなるのかということについては、
現実的な喪失体験や休業・休職、うつをはじめとする症状の顕在化などが、
来室の引き金になるのかもしれません。
昔からずっと生きることが苦しい、という慢性的な生きづらさであるなら、
そのタイミングは一歩を踏み出す勇気にかかっていることかもしれません。
何かのきっかけを有す場合には、
今、切実に感じられている困りごとの改善が望まれることと思います。
その切実に感じられている困りごとのみの改善でいいのだ!というかたは、
その改善に一直線に進むことを目的とするような心理療法がより良いかもしれません。
精神分析的心理療法のように面接の期間を決めずに、
自由連想法という自分の思うことをなんでも言葉にする、
もしくはしないというような表現を通して、
自分を知るという取り組みをするということは、不安でしかないことかもしれません。
精神分析的心理療法を始めるにあたっての契約書には、
自己の責任で開始して、終わるとのことも書かれています。
そのある種の不安を抱えながらも私と作業をしていくか否かは、
やはり、実際に私との面接を体験して決めていただくしかありません。
さまざまな同業のサービスを提供する施設の中から当ルームに足を運んでみようかという方は、
すでに私との間での、なにかが共鳴していることがはじまっています。
変な勧誘文句ではありません。(笑)
なにに惹かれるかということは、
それが家から近いからという物理的なことであっても意味のあるものです。
いうならば、そのような観点をもって(無意味に見えることにも実は意味がある)
取り組むのが、精神分析的な作業ともいえます。
その様な観点に立つ私から来室される方に返されることばを来室される方が聞く中で、
来室される方のこころの中の何かが刺激され、何かが呼応して私との作業が進んでいきます。
こころの中が刺激をうけて動いている、どのように動いているのか、
もしくは動こうとしていることが制止されているのか、どうしてこのように動いているのか、
このようなことを私は感じつづけようとし、感じたことを言葉にしてお伝えしていきます。
こころのことが、ことばにされてやりとりされることは、
双方に負荷のかかることになりますが、
そこから発生する何かは、それまでのその方の人生にあった何かを顕在化させますし、
それまでにはなかったなにかを創造することもおこります。
このようなかかわりの結果として、
来室される方がご自身のこころを知っていくことがなされます。
実は自身が知ってほしいと思っているこころの中にある、
その方の(おおよそは乳幼児期の)訴えを知ることで、
今の困難が変容するとのことを、私は体験的に知っています。
目に見えないことの話なので不思議ですが、まぎれもない事実としてあることです。
このような体験が、来室される方に自覚的に認識されるまでには、
相当な個人差があることは否めませんし、数年の月日を要する作業ともなります。
現実の生活を守り営みながら、
このような自分自身への取り組みを並行して行っていくことは、
大変な覚悟を要することでもあると思います。
しかしながら、それまでのこころの苦難と同等かそれ以下の苦難で、
その先の人生の色どりが大きく変わるのであれば、このことの喜びは計り知れません。
自身を知っていく作業というものは、このような体験に開かれていることなのです。
大きな期待を持たせることになってしまうかもしれませんが、
今のままでは苦しすぎるとの事実が後押しするのだろうと思います。



