『具体と抽象』という書籍にふれて
わたしたちのこころは、私たち自身によって守られています。
そして、その守り方は人それぞれにちがうことです。
自分は、どのようなこころの守り方をしているのか?
このことは、身体の機能が自動的に働いてくれているのと同じように、
全く意識することなく機能しているこころの営みともいえます。
私たちのこころは、
まずは養育者をはじめとする周囲の環境の中で、守られることから始まります。
守られた中で成長し、集団の中でいろいろな体験をしながら、こころは鍛えられていきます。
こころが鍛えられるとは、まるで身体の筋肉と同じような表現であると思われることでしょう。
身体の筋肉も、こころも、程よい痛み(筋肉痛)や苦痛を感じたとき、それを修復する営みのなかで、たくましくなります。
こころに痛みを覚えるような体験を経る時には、乗り越えたとの達成感や、のちには、同様の苦しみの中にある他者への思いやりが芽生えるかもしれません。
ここで考えてよいことは、こころの苦痛が大きすぎる場合、
こころの守り方が複雑になったり、その在り方が極端なものになったりするということです。
どのようであれ、こころを守ってきた、苦痛が大きかった時期を乗り越えることができた。
このことは良かったことです。
しかしながら、そのこころの守り方は、もしかすると、その後の生活環境や状況が変化したときには不適応的に作用してしまうことがあるかもしれないのです。でも、当の本人にとっては、それは自動的に無意識的に行っていることでありつづけます。
ここに、生きづらさが発生します。
そして、もともとあった苦痛と同様の苦痛を再現するような体験を繰り返すことも発生します。
そうなると、かつてあった大きな苦痛に対して機能していたこころの守り方は、適応的なものになります。でも、やはり苦痛な人生に変わりはない、との事態が、そこには横たわっています。
このような事態を、このような事態から発生する症状を、生きづらさを、何とか改善したい。
そう切実に望まれるときは、専門家とのこころの作業が役立つときです。
こころの作業は繊細な営みなので、この人とならこころの作業をできそう、と思う人と継続することをお勧めします。
ここに妥協は必要ありません。大切な時間とお金と労力を割くのですから。
今のままで生きるもよし、生きづらさが大きいなら、一歩踏み出すもよしです。
私は、可能な限り、自分のこころが納得するようにしてあげたい、そう思っています。
こころは自由でありたいものです。